伍
時が止まったような静寂が流れる。
誰も何も言葉を発さず、食事の手も止まって何の音も響かない。ただ、朱夏の荒い息遣いと琉兎の静かな呼吸、どうすべきかと逡巡するような烏の焦った気配だけが室内を満たしていた。
首を傾げたままの琉兎が、再び口を開いた。
「……違った?」
不思議そうに、純粋な疑問だけを尋ねたような表情だった。己がおかしなことを言ったという自覚がないかのように。
「……そ、其方、は……」
言いかけて、朱夏はこくりと唾を飲み込んだ。何を言おうとしたのか、己でもわからない。
「そのために、わたしを連れて来たのかと、思ってた」
何でもないことのように話す琉兎に、朱夏は緩く頭を振った。
「何故……そのようなことを」
声が震えないように必死になる朱夏に、琉兎は続ける。
「だって、みんなそれをさせるから」
「みんな……?それ、とは」
「わたしの体を使って、相手に言うことを聞かせる。そしたら、わたしはご飯がもらえる」
がたん、と音を立てて朱夏が立ち上がった。体の横で握った拳が小刻みに震えている。
「そのようなこと、許されるものかっ!」
激昂する主君に駆け寄った烏が、宥めるように口を開いた。
「親王さま、どうぞ落ち着かれませ。民の中には、そうやって生計を立てる者もおります。そう珍しい話ではございません」
「そういう問題ではない!」
視線で射殺せそうなほど強い瞳に睨めつけられ、烏が金縛りにあったように固まった。
「このような、年端もいかぬ者に、させることではあるまい!?」
「じゃあ、わたしはどうやってご飯をもらえばいいの?」
静かな疑問に朱夏ははっとする。狼狽えたように視線を少女に向けた。
「ご飯……?」
「食べなきゃ、死んじゃうじゃない。わたしはまだ小さいから、体を触らせるだけだって小父さんが言ってた。痛いことは何もないのよ」
目の前の少女が何を語っているのか、朱夏には理解できなかった。いや、理解することをどこかで拒絶しているような感じがする。
このままでは、いけない。いずれ国を継ぐ者として、目を背けてはならない。
ぐっ、と歯を食いしばり、呼吸を整えて椅子に座り直した。
「大声を出した。すまぬ」
激情を抑え込んだ主君に感心しつつ、烏は内心に苦いものを抱える。まだ幼いのは、朱夏とて同じことだ。だが、民の暮らしを見たいと町へ下りる彼を、ただ護衛していればいいわけではなかったことに気づく。
綺麗なものだけを見て育ってほしい主君に、まだ聞かせたい話ではなかった。少女の口から語られたような話は、どこにでも転がっているようなことだ。彼女が特別ということはない。
あっさりと世間の闇というものを明かされた朱夏が、これからどうなってしまうのか、烏は不安だった。
そんな従者の葛藤に気づいているのかいないのか、朱夏が気を取り直したように少女に話しかけている。
「腹は膨れたか?」
少し首を傾げ、出された茶をゆっくりと飲み干した琉兎は頷いた。
「こんなにたくさん食べたのは久しぶりだった。ありがとう」
そして、立ち上がろうとする少女に朱夏が慌てたように声を掛ける。
「今宵は、この宮に泊まっていくといい。日が沈めば暗くなる。帰るのにも難儀だろう」
「……」
「そうだ。湯に浸かりたくはないか?その髪も体も、綺麗に洗うとよい。すっきりするぞ」
言い募る朱夏に琉兎は不思議そうな瞳を向けた。
「代わりに、何をすればいいの?」
「え……?」
「何か、奉仕してほしいの?」
「っ!!」
琉兎の言葉に目を見開き、朱夏の頬が徐々に染まる。
閨教育などまだ始まってもいないが、宮の内で侍女たちの噂話を聞かされて育った朱夏には朧気ながら男女間のことも知識があった。
「な、何を言っているのだっ!私は、そのような邪な気持ちで、其方を連れて来たわけではない!」
「じゃあ、どうして?」
「単に、其方が心配なだけだっ」
焦る朱夏の答えに、琉兎が驚いたように瞳を見開いた。
「心配……?」
「暗い夜道を、女子が一人で帰るなど、危険だろう。朝になり、明るくなってから戻ればよい」
「……」
しばらく考え込んでいた琉兎が、小さく頷いた。
「そういう人も、いるのね」
「えっ?」
「何でもない。じゃあ、泊まらせてもらおうかな」
琉兎の返事に、朱夏はようやく安心したように微笑んだ。




