漆拾漆
夏の宮から本宮へと真っ直ぐ駆け抜けた朱夏は、流れる汗も拭わずに建物の内へと入った。
普段ならば文官たちが忙しく立ち動くさまが見られる本宮は、しんと静まり返っていた。人の気配を感じられないことに眉を顰めながら、朱夏は宮の奥を目指す。
誰ともすれ違わず、朱夏の内に違和感が膨れ上がりながら、たどり着いた帝の執務室。
大きく開け放たれた扉から、誰かが言い争うような声が聞こえてきた。
「ですから、わたくしは何も……っ」
「お黙り。大人しそうな顔をして、今上さまに何と恐ろしいことを」
「本当に、わたくしは何も知らないのですっ、第二室さま!」
聞こえた声と内容に、朱夏の胸が大きく鼓動を打つ。勢いのままに、開かれた扉から駆け込んだ。
「何の騒ぎだ!」
鋭く叫ぶと、室内で言い争っていた二人が同時にこちらを向いた。
濃紺の衣に水色の裳を穿いた蓮黄が、緋扇で顔を隠している。
対する迦陵は、蓮黄の護衛である武官に押さえつけられ、床に膝をつかされていた。纏う薄青の装束は乱れ、結い上げていた髪も崩れている。
榛色の瞳を丸くしてみせた蓮黄が、嫣然と微笑む。
「まあ、日嗣宮さま。本日は、我が息子と交流されていたのでは?」
母には内緒で来たと話していた冬廉だが、やはり蓮黄は把握していたらしい。
「……本宮よりの火急の使いが来たのでな」
「お耳が早いことで」
「それで、第二室どのは何をしている」
迦陵を押さえつける武官を睨みつけ、その手をどかせようと言葉を紡ぎかけた朱夏に、蓮黄がころころと笑う。耳障りな声に、朱夏の眉が寄った。
「おかしなことをおっしゃいますこと。今上さまにご無礼を働いた者を、こうして取り押さえているだけですわ」
「父上はどちらに?」
「勿論、すぐに籠宮のご寝所にお連れして薬師に診させております」
蓮黄の護衛に歩み寄り、朱夏はその腕に手をかけた。
「日嗣宮さま?」
「その手を離せ。か弱い女人に、鍛えた武官が力づくなど、恥を知れ」
「ですが……」
ちらちらと蓮黄に目をやる武官の手を、朱夏は強引に離させた。
「……日嗣宮さま。罪人を庇いますの?」
「確たる証でもあるのか?第六室どのが、父上に毒を盛ったと?」
「わたくしが、この目で見たのですわ」
朱夏の動きが止まる。自信たっぷりに微笑む蓮黄を、真正面から睨む。
「第二室どのが、何を見たと?」
迦陵を背に庇うような位置に立ち、朱夏は蓮黄の言葉を聞き漏らすまいと意識を集中させる。
「本日は、来月の廟参りのご相談に、今上さまの元を訪れましたの。そうしましたなら、第六室さまもおいでになって」
籠宮から出てくることのない迦陵の姿に、蓮黄も驚いたと言う。
「ですが、今上さまのお許しを得て、わたくしのように廟参りについての話に来たと伺いましたわ」
「……それで」
朱夏の低い声にも怯むことなく、蓮黄は続ける。
「仲睦まじいところを見せつけられるなど、真っ平ですから。わたくしのご相談は次の機会にしていただこうと、お部屋を辞すつもりでおりましたの」
ちらり、と蓮黄の榛色の瞳が迦陵に向いた。朱夏に庇われ震える迦陵の姿に、蓮黄の瞳が細くなる。
「そうしましたなら、第六室さまが。珍しいお茶を献上されたと、今上さまにお淹れしましたのよ」
「珍しい茶?」
「外国から取り寄せた、この国では味わえないお茶だそうで。手ずから淹れて、今上さまにお出しなさいましたの。わたくしは、お部屋から出ようと扉の側におりましたが、よく見えましてよ」
ほおっ、と蓮黄が息を漏らす。芝居がかったその様子に、先ほどまで迦陵を押さえつけていた護衛の男が、恍惚とした色を瞳に乗せて蓮黄を見つめた。
「一口含んだ今上さまが、お顔の色を青くなさって吐き出されましたの。そして、一言呟いてお倒れになりましたのよ。『何の、毒か』と」
「……」
「驚きましたわ。わたくしの目の前で、今上さまにそんな恐ろしいことをするなんて。深い恨みでもあったのかしら?」
頬に手を当て首を傾げてみせる様子には、かつて帝の寵愛を受けていたと納得できる色香があった。朱夏には醜悪に感じられるその表情は、彼女付きの武官たちには麗しい第二室と映るようだ。
「とにかく、この栄えある宮中で、許されることではありません。連れていた武官に取り押さえさせましたの」
肩を竦め、蓮黄は口を閉じた。何か反論でもあるのかと、その瞳が朱夏を見据える。
「其方の話はよくわかった。それでは、第六室どのからも話を聞きたい」
「そんな必要はございませんでしょう?わたくしが、この目で見たことをきちんとお話致しましたわ」
「だが……」
ぱちりと緋扇を閉じ、蓮黄は朱夏をねっとりと見つめた。
「わたくしだけでなく、この場に控える護衛たちも見ておりましたのよ。今上さまがご回復なさるまで、第六室さまには牢に入っていただくべきですわ」
「物事は、片方の言い分だけを聞いて判断するべきではない」
「ご立派ですこと。ですが、今上さまのご裁可を仰げない以上、疑わしき罪人は野放しにすべきではありません。日嗣宮さまとして、正しいご判断をしていただきたいわ」
ぐっと唇を噛み、朱夏は迦陵に瞳を向けた。一瞬、薄桃色と視線が絡み合う。
「それとも」
蓮黄の声にはっとして、朱夏は迦陵から目を逸らした。
「日嗣宮さまには、第六室さまを庇いたい理由でも、おありなの?」
「何を……」
「まさか、共謀なんて、なさっていませんわよね?」
「ふざけたことを」
蓮黄の瞳が、蛇のように朱夏を捉えていた。
烏を夏の宮に置いてきたことを、これほど悔いたことはなかった――。




