漆拾陸
突然立ち上がった兄を驚いたように見つめ、冬廉の口がぽかんと開いたままになった。
はっと我に返り、朱夏は座り直した。ここで冬廉を咎めても、恐らく正しくは伝わらないだろう。蓮黄に冬の宮への立ち入りを禁じるように、父帝に奏上すべきだろうか。日嗣宮としては、越権行為であろうか。
目まぐるしく考えが浮かんでは消える朱夏を、冬廉が菓子を頬張りながらじっと見つめている。
「……冬廉」
「ひゃい?」
口いっぱいの菓子を飲み込みきれず、冬廉が両手で口元を押さえた。
「煌は、私の、妻だ。其方の、妻になることは、ない」
幼い弟が理解できるように、一言ずつ区切って伝えてみる。
菓子を飲み込んだ冬廉が、頭を振って冷茶を飲み干した。顔の前で、指を一本立ててみせる。
「兄上。わたしは母上のおおせのように、かしこくはありません。ですが、母上はわたしにうそは言いません。わたしのつまに、とおおせなら、そうなるのです」
諭すような口調に、朱夏の頭に血が上る。さすがに咎めそうになったところへ、夏の宮の入口を守る武官が飛び込んできた。
「親王さま、御前失礼致します!」
控えていた護衛たちが、一斉に殺気だった。身構える男たちをそのままに、息を切らした武官が朱夏に駆け寄る。
「……何事だ」
宮の主人が客を饗している場に、武官が押し入ってくることなど常ならばあり得ない。朱夏の胸を、言いようのない不安が襲う。
「たっ、ただ今本宮から使いが……!」
「本宮から?」
眉を上げた朱夏に、跪いた武官が肩で息をしながら続けた。
「き、今上帝さまが、お倒れになられたと!」
「何だと!」
再び勢いよく立ち上がり、朱夏は武官を立たせた。焦りの滲む顔をじっと見上げる。
「病か?使いの者は何と!?」
「毒を、盛られたと」
「っ!」
朱夏の顔が青ざめた。夏勢帝の毒見役は、常に三人はいたはずだ。そのすべてを、すり抜けた毒ということか。
「その、それが……」
「何だ」
とにかく本宮へ行かねばと歩こうとした朱夏の動きを、さらなる報告が止める。
「第六室さまにより、毒を盛られたとのことです」
「は!?」
ぐるんと体の向きを変え、朱夏は武官に詰め寄った。大柄な男の胸元を掴み揺さぶる。
「どういうことだ!?」
「いえ、私もそう知らせをお聞きしただけで」
「本宮からの使いは!?もう戻ったのかっ」
男の襟から手を離し、朱夏は呆然と座ったままの弟を見やる。
「冬廉。火急の用だ。私は本宮へ行かねばならぬ。其方は護衛たちと、冬の宮へ戻るがよい」
言いながら、朱夏は歩きだしていた。何故、こうして冬廉と会っている今日に限って、そんな重大事が起きたのか。父帝は無事なのか。
大股に廊下を進む朱夏の背後に、烏が近づいてきた。
「親王さま、どうなさいました」
「父上に、よからぬことが起きた。本宮へ行く」
「今上帝さまに?」
「其方は煌の護りを固めろ。冬廉は護衛とともに冬の宮へ帰せ。侍女たちと武官は、すべて煌の部屋へ」
矢継ぎ早に指示を飛ばしている間に、朱夏は夏の宮の入口へ到着した。沓を履き替えるのももどかしく、つっかけただけの状態で外へ出る。
一度だけ振り返った。烏の漆黒の瞳が、気遣わしげに朱夏を見ていた。辺りに誰もいないことを確かめ、朱夏は烏を手招いた。
「親王さま?」
烏の耳元で、朱夏は小さく囁いた。
「使いによると、父上が第六室どのに毒を盛られた、と」
「っ!」
烏の表情が驚愕に染まる。
「まさか……」
「私もまさかと思う。だが、使いの者はすでに戻った後だ。詳しいことが何もわからない。本宮で確かめてくる」
「吾も、お供を……」
青ざめた烏に首を振り、朱夏はさらに低く続ける。
「これが第二室どのの策略だとしたなら、夏の宮も安全とは言い切れまい。煌を護れ」
「親王さま……」
「頼む。煌が安全だと、私を安堵させてくれ」
「……御意」
唇を噛みしめた烏に一つ頷き、朱夏はくるりと振り返った。本宮までの道を駆け出す。
何がどうなっているのか、この目で確かめるまで判断などできない。ただ、父帝と迦陵の身が案じられて仕方がなかった――。




