漆拾弐
表宮を通り抜け、籠宮へと戻った夏勢は護衛を外に控えさせて迦陵の私室へ入った。
扉を開くと同時に香る伽羅の香が、夏勢の心を落ち着かせる。
椅子に座して書物を読んでいた迦陵は、常よりも早い帝の戻りに驚いて立ち上がった。
「今上さま、お帰りなさいま……」
言い終わるよりも先に、大股に近寄った夏勢の腕の中に迦陵は囚われる。顎に指をかけられ、上を向かされて目を閉じた。唇に、熱い唇が重ねられる。
深くなっていく口づけに、迦陵の呼吸が乱れ始めた。何年経っても、夏勢と唇を合わせることに慣れない。そのまま、寝台に押し倒される。
「……っ、今上……」
荒々しく進められる閨事は、いつも迦陵に思考を放棄させた。目を閉じて、嵐の中を進むように流れに身を任せていれば、いつの間にか終わる。
夏勢の強引さを、いつしか待ち侘びるようになっていた己を、迦陵は受け止めきれずにいた。
「……っ、柊……っ!」
「……っ」
まだ日も高い内から、こうして帝と寝所に籠ることに、初めは抵抗もしてみせた。仕える侍女たちや護衛の視線が気になり、帝の顔から目を逸らそうとしたこともある。
だが、こうして別の名を呼び続けられる閨の中は、迦陵に帝の寵愛深い第六室という立場を忘れさせた。己は「ひいらぎ」の代わりなのだ。迦陵自身を見る者など誰もいない。侍女の視線も護衛の視線も、迦陵を見ているわけではないのだ。
そのことに気づき、迦陵は抵抗をやめた。籠宮から出られない己は、金で買われた「ひいらぎ」なのだから、何も考えずに受け入れていればいい。
夏勢はすべてを飲み込むように、迦陵の肌を貪った。
気怠い体を起こし、迦陵は乱れた着物を整えた。枕元に置かれた呼び鈴を鳴らし、寝台を整えてもらうために侍女を呼ぶ。
籠宮には年嵩の侍女と女性の武官しか仕えていなかった。迦陵が移ってきた初めの頃には、年若い侍女も男性の武官もいたが、夏勢帝がこの数年で入れ替えた。男性の武官は、表宮と籠宮を行き来する帝の護衛のみである。
「失礼致します、第六室さま」
私室に入ってきた侍女に、乱れた寝台を見られることにも、もう慣れた。
「今上さまのお部屋で、昼餉を取ります。こちらを整えておいて」
すでにこの私室から帝の姿は消えていた。廊下を挟んだ向かい側の部屋で、ゆったりと体を休めているところだろう。
眉一つ動かさずに頭を下げた侍女に後を任せ、迦陵は帝の部屋へと足を踏み入れた。
長椅子に腰掛け、夏勢帝は指で目頭を揉んでいた。
「今上さま?お加減がよろしくないの?」
「……ああ、いや。雨でも降るやもしれん。少し頭が痛んでな」
「お解しします?」
夏勢帝に歩み寄り、そっと瞳を覗き込んだ迦陵は尋ねる。
「そうだな。肩が凝っている。頼めるか、迦陵」
閨でなければ、夏勢帝は迦陵の名を呼ぶ。それが、いつからこれほど苦しく感じるようになったのか、迦陵にはわからなかった。心など、必要ないのに。
「では、失礼致します」
夏勢帝の後ろに回り、大きな肩にそっと手を置いた。少しずつ力を込め、凝り固まった肉を揉み解していく。
「其方にと思っていた紅だが」
「……はい?」
「櫻花楼に頼んでいた。其方には色が合わぬと、朱夏にやった」
「日嗣宮さまに……」
帝の肩に触れる指が震えないように、迦陵は唇を引き結んだ。
「煌に贈るように、申し伝えた」
「ご正室さまに?」
指で圧をかけながら、迦陵はゆっくりと帝の体を解していく。宮中に入った時からの、迦陵の日課であった。
「祝いにやった」
「祝い……」
「煌も大人になったようだ。今朝は小豆の赤米が膳に並んだことだろう」
「それでは……」
煌姫に起きた慶事を理解し、迦陵の瞳が丸くなる。
「日嗣宮としても、安堵したことだろう」
「……」
「まだ世継ぎを作るには幼いが、五年などすぐに過ぎる」
長椅子の上にうつ伏せに寝転がった夏勢帝の腰に、迦陵の指が触れる。肩と同じように、揉み解し始めた。
成婚の儀で垣間見た朱夏の正室。明るい場所を歩くのが似合うような、花のような姫君だった。日嗣宮に並び立ち、胸を反らして誇らしげだった姫君の姿を、迦陵は頭を振って追い出した。




