陸拾捌
夕餉の席に煌姫の姿はなかった。
久しぶりに一人での食事を済ませ、朱夏は秋穂に呼ばれるまでの時間を私室で過ごす。
呼び寄せた烏に、隠しておいた書状を手渡す。
「親王さま、これは?」
「処分せよ」
端的に告げる朱夏に目を剥き、烏はきっちりと封をされた書状を眺めた。
「どのように、処分致しましょう」
「燃やせ」
「御意」
小さく頷き、烏は書状を己の懐にしまった。息を吐いた主君の瞳を覗き込み、微笑む。
「烏?」
「此度は、お方さまのご成長、誠におめでとうございます」
「……ああ」
幼い頃から側で仕えてきた烏に祝福されると、朱夏の胸に温かい気持ちが湧いた。
「これより、お方さまはますますご成長なされ、名実ともに親王さまのご正室さまとなられましょう」
「そうだな」
「いずれは、正統なお世継ぎもご誕生なさいますでしょう」
確信に満ちた烏の言葉に、朱夏の眉が寄った。その表情に、烏が怪訝な顔をする。
「どうなさいました?」
「父上から、煌が成人するまで余所で発散させるよう言われた」
「それは……」
重たい溜息を吐き、朱夏は天井を仰いだ。
「父上の仰せも、理解はできる。適度に発散し、私の内に熱を溜め込むなということだろう」
「……」
「櫻花楼に忍んで行き、そこで買うことも考えたが」
烏の表情が曇った。何年経とうと、主君の心に消えない傷をつけた櫻花楼。今になって、あの店で女を買わせることはさせたくなかった。
「私は、父上のように上手く物事をこなせない」
「……」
「政も女も、父上は上手に転がしておいでだ。私には、とても真似できない」
目を閉じた朱夏の前に回り、烏は膝をついた。
「真似など、なさる必要はございませんよ」
静かな声に、朱夏は天井を向いたまま目を開けた。
「烏?」
「貴方さまの誠実さは、お方さまを安心させるでしょう。今上帝さまは確かに素晴らしい帝ですが、女人に関することでは、あまり褒められないこともなさっておいでですから」
「不敬と言われても知らないぞ」
僅かに軽くなった朱夏の声に、烏は微笑んだ。
「この宮にいる間だけのことです。どうぞ、目を瞑っておいてくださいませ」
ふっ、と笑って朱夏は姿勢を正した。真っ直ぐに、烏の瞳を見返す。
「とにかく、櫻花楼を訪ったという事実だけは作る。『花』は買わない」
「あの楼主が、それで納得しますか」
「数度しか会っていないが、ものの道理がわからない男ではないと思う」
国内の流通を一手に引き受け、遊郭に生きる迦陵を今上帝の側室として召し上げさせた。そのことで、宮廷と太い繋がりを得た櫻花楼の楼主は、近年では外国にも手を伸ばしているという。
「今更、私の不興を買って不利益を被ろうとはするまい」
「それならば、よいですが……」
何か言いかけた烏の背後で、私室の扉を叩く音がした。
入室の許可を出すと、満面の笑みを浮かべた秋穂が入ってきた。
「親王さま。お方さまが、ようやく落ち着かれました。お会いになれますよ」
すぐに立ち上がり、朱夏は烏に書状を任せたまま私室を飛び出した。
ふわりと薫風が香る煌姫の私室。
寝台の上で身を起こし、背に枕を当てた煌姫が入ってきた朱夏を見て眉を下げた。
「朱夏さま、お戻りを出むかえできず、申しわけございません」
頭を下げようとした煌姫に慌てて駆け寄り、朱夏はその体を支えてやった。
「無理をすることはない。具合がよくなかったのだろう?」
そっと煌姫の背をさすり、掛布の上で握りしめられた手に己の手を重ねた朱夏は、優しく言葉を紡ぐ。
「でも、びょうきではないのですもの。そんなに甘やかしてはいけませんわ」
「病気でなくとも、其方にとっては初めてのこと。不安で当然だ。少しくらい休んでいたからと、其方を責める者などこの宮にはおらぬ」
心細げな煌姫の頬に手を当て、朱夏はそっと己に顔を向けさせた。
「さあ、顔をよく見せておくれ。体調はどうだ?気分は悪くないか?」
燭台の火を受けて揺らめく薄桃色が、朱夏の瞳を見つめる。
「とうみつを垂らした薬草茶を、秋穂が飲ませてくれました。体があたたまって、よい気分です」
「糖蜜か。それなら、甘すぎず私にも飲めそうだな」
朱夏の言葉に、煌姫の瞳が丸くなった。
「朱夏さまが、召し上がるの?」
「其方が飲むなら、私にも飲ませてくれたってよいだろう?」
煌姫の額に己の額を当て、朱夏は妻の瞳を覗き込んだ。みるみる朱に染まる頬が愛らしい。
「明日には、おきあがれると思いますわ」
「では、今宵は早く休もう。私は、ともに寝ない方がよいか?」
その問いに、煌姫はきょとんと首を傾げた。
「どうして?」
「其方は大人になったのだろう?褥は別にした方がよいのではないか」
驚いたように口を開け、煌姫は小さく呟いた。
「わたくし、もう朱夏さまと眠ってはいけないの?」
「あぁ、いや。そうではない」
涙の溜まる瞳に慌て、朱夏は妻の体を抱き寄せた。両腕にすっぽりと収まる、まだまだ小さな体。
「体調がよくないのなら、私はいない方がいいと思っただけだ。其方が望むなら、これまで通りともに眠ろう」
「……ほんと?」
「ああ。私が、其方に嘘を吐いたことがあったか?」
腕の中で首を振った煌姫が、縋るように朱夏の襟を掴んだ。
「お約束よ。ずっとずっと、おそばにいるって」
「ああ。約束しよう。私は、其方とともにいる」
ようやく安心したように、煌姫の手から力が抜けた。




