陸拾漆
言葉を失った父帝の前を辞し、朱夏は夏の宮への道を急いだ。
あんなことを言うつもりはなかった。為政者としての父を尊敬はしている。国を正しく動かし、重臣たちを掌握しているのなら、私的な部分は朱夏が立ち入ることではなかった。
それなのに、かつて父が櫻花楼に忍んで行っていたことを、つい口にしてしまっていた。朱夏が知っているとは、思ってもいなかっただろうに。
父帝が櫻花楼に宛てて書いた書状は、再び朱夏の手にある。懐の内で握り潰してしまいたかったが、本宮では誰の目があるかわからない。夏の宮に戻り、烏に処分させるつもりだった。
新緑に囲まれた夏の宮が見えてきた。本宮からそれほど離れていないのに、女主人の持つ柔らかな雰囲気のためか、朱夏の胸に安堵の思いが満ちる。
建物の入口で武官が朱夏に拝礼した。頷いて、開かれた扉から内へ入る。
沓を履き替えていると、奥から侍女長の秋穂が出迎えにきた。
「お帰りなさいませ、親王さま」
「ああ、戻った。煌はどうした?」
「それが……」
口元を押さえた秋穂に、朱夏は怪訝な視線を向ける。
「何だ?」
「その、ご体調が優れないようなのです」
「薬師は呼んだのか!?」
告げられた内容に驚き、朱夏は煌姫の部屋へと駆け出した。その背に、秋穂が必死に声を掛ける。
「いえっ、あの!親王さま、お待ちをっ」
背の高い朱夏と小柄でふくよかな秋穂では、その歩幅に大きな差があった。大股に廊下を駆ける朱夏に、秋穂では追いつけない。
煌姫が夏の宮に暮らすようになって、じきに六年。その間、何度か熱を出したことはあった。いずれの時も、早くに薬師を呼びつけ大事には至らなかったのだ。何故秋穂は、薬師を呼んでいないのか。
うるさく響きだした鼓動を抑えるように、朱夏は煌姫の私室まで一息に走った。
扉の脇に控えていた侍女が、驚いたように目を見開いた後、朱夏を遮るように立った。
「……退け」
「なりません、親王さま」
「煌の具合がよくないのだろう?何故、私の邪魔をする」
まだ夏の宮に来たばかりの、年若い侍女だった。朱夏の低い声に、侍女の小さな肩が跳ねる。
その肩に手を置いてどかせようとした朱夏の耳に、息を切らした秋穂の声が届いた。
「お、お待ちを、親王さまっ」
はあはあと大きく息をしながら、汗だくになった秋穂が朱夏の背後で足を止める。ちらり、と己の肩越しに振り返った朱夏は、眉を寄せて尋ねた。
「秋穂、隠さず申せ。煌は、流行病か?だから、私を部屋に入れないようにしているのか?」
「っ、いいえ……いいえ」
ふうふうと息を整えた秋穂が、真っ直ぐに朱夏を見上げて微笑んだ。
「……秋穂?」
胸の前で両手の平を合わせた秋穂が、嬉しそうに目を細める。
「おめでとう存じます、親王さま」
「は……?」
「お方さまは、初めての月の障りが来たのでございますよ」
「え……?」
ぽかん、と口を開いて固まった朱夏に、秋穂はますます笑みを深めた。
「ただ、初めてのことで動揺なさいまして。ご気分が優れないようで、横になって休んでおいでですの」
「くす、薬師は、要らぬのか?」
「そうですわね。まずはお体を温め、滋養ある薬草茶をお飲みいただいております。障りが重いようでしたら、薬師を呼んで何か調合してもらうのもよいかと」
じわじわと、朱夏の頬に熱が集まり始めた。煌姫に、月の障りが――。
再び、秋穂が深く頭を下げた。朱夏の背後で、若い侍女も頭を下げている。
「お方さまが大人の女人となられましたこと、誠におめでとう存じます」
「おめでとう存じます、親王さま」
「あ……あぁ、ありがとう」
何と答えていいのかすら、朱夏にはわからなかった。今朝、宮を出た時には普通に会話したのだ。まさか、本宮に出かけている間に、そんなことになっていようとは思いもしなかった。
侍女たちの祝福の言葉が擽ったい。何にかわからず照れて、朱夏はぽり、と頭を掻いた。
「煌には、いつ会える?」
「お気持ちが落ち着かれましたら、いつでもお会いになれますわ」
「そうか。では、それまでに湯浴みを終えてくる」
朱夏は煌姫の部屋へと体を向け、その扉にそっと手の平を当てた。聞こえないだろうと思いつつも、声を掛ける。
「……煌。後で会おう。今は体を労るように」
くるりと踵を返し、朱夏は汗を流すために湯殿へと向かった。




