陸拾陸
昼餉を手早く掻き込んだ朱夏は、誤った目録を手に帝の執務室を訪れた。
紫紺の薄布が垂らされた扉を叩き、許可を待たずに室内へ入る。この時間、父帝は籠宮で午睡のために不在だった。近頃体が痛むことがあるようで、式典が無事に終わるまでは休んでもらうようにしている。
壁際に設置された書棚を、端から順に確かめた。朱夏の手元に二代前の目録が来たということは、当代の目録はここにあるはずだ。
「……先代、三代前……これは随分前の物だな。背表紙が傷んでいる」
一つ一つ見ていきながら、痛みが激しい物には目印をつける。後で、書物の管理をしている文官に伝えてやらないと。
「……見当たらないな」
ふう、と息を吐き朱夏は帝の席へ視線を移した。きちんと整頓された机の上に、書きかけの書状が乗っていた。近づいて手に取る。
「……櫻花楼への要請状?」
帝の私的な書状を勝手に見ることなど許されない。だが、妙な胸騒ぎを覚え、朱夏は書状をめくってみた。
『日嗣宮の元へ、季節の花を届けるように』
朱夏は息が止まるような心地がした。手の中の書状を握り潰してしまいそうになり、慌てて力を抜く。
父帝が、櫻花楼に何を要請したのか。問い質すべきか、見ない振りをするべきか。
頭を振って、父が書いたと思われる書状を懐にしまい込んだ。誰に見られるかもわからないこんな場所に、置いておいていい物とは思えなかった。
早くなる鼓動を抑え、朱夏は執務室を後にした。落ち着かない気持ちを抱えたまま、午後の仕事に戻るわけにもいかない。近衛の詰める鍛錬場で、少し体を動かすことにした。
軽く汗を流して装束を替えた朱夏は、日が沈み始めた本宮の廊下を戻り執務室へと入った。
昼間とは違い、扉脇に護衛の武官が二人控えていた。
「父上はおいでか?」
「はっ。先ほどお戻りになられました」
武官の答えに頷き、朱夏は開けられた扉から室内へ入った。
「父上、失礼致します」
机に向かうでもなく、夏勢帝は応接用の椅子にゆったりと座っていた。数年前から伸ばし始めた顎髭を、大きな手で触っている。
「日嗣宮か。どこへ行っていた?」
細められた目を真っ直ぐに見返して、朱夏は答える。
「気晴らしです」
「……やることが溜まっておろうに、悠長なことだな」
父帝の向かいに腰を下ろし、朱夏は懐から書状を取り出した。
「父上。これを見てしまいました」
すっ、と卓の上に書きかけの書状を投げ出した朱夏に、夏勢帝の眉が上がった。
「他者の、それも帝の書状を勝手に見るなど、無作法な」
「お詫び致します。ですが、机に放ったままでおかれては、誰に見られるかわかりませんよ」
顎髭を撫でながら、夏勢帝は眉根を寄せる。
「近頃生意気になってきたな」
「父上相手であっても、多少は言い返せませんと。日嗣宮として情けないことです」
「……うむ」
放られた書状を手に取り、夏勢帝は中身を検めた。
「ああ、これか……読んだのか」
「はい。ですので、意味をお尋ねしたく」
つまらなそうに再び卓に書状を放り、帝はじっと息子の瞳を見つめた。己と同じ色の、青灰色の瞳に強い意思を感じて頷く。
「言葉通りの意味だ」
「櫻花楼で花と言えば、妓女たちのことですが」
「そうだな」
あっさり首肯した父に、朱夏は険しい顔になった。
「夏の宮に、遊女を送れと、そのような要請を?」
顎髭を撫でる手を止めず、夏勢帝はゆっくりと首を縦に振った。
「春香を下賜し、煌はまだ幼く。欲を発散させる相手を頼んだまでのこと。凛慈の薦める女なら、間違いは起こるまい」
「……」
「煌の成人までまだ五年もある。その間、誰のことも抱かぬのか?」
答えない息子の様子を気にすることなく、帝は続ける。
「其方とて、健全な男。恥ずべきことではない。だが、今夏の宮におる侍女は、煌に合わせて皆、年若かろう。手をつけるには、ちと具合が悪い」
「……」
「この四年の間に、第二室が其方を嵌めようと送り込んだ女の数は、すでに片手の指では足りるまい?それを悉く追い返され、あちらも焦れておる」
ふ、と息を漏らし夏勢帝が視線を逸らした。
「其方が煌を大事にし、操を立てようとしているのはわかっておる。だが、帝の世継ぎとして案じられるところもある」
「それが、女を抱くことに繋がりますか」
思いの外冷たい息子の声に、夏勢帝は苦笑を浮かべた。
「煌が成人したなら、正室として其方と世継ぎを作らねばならぬ。そうなった際に、其方が不能では煌が困ろう」
「……」
「程よく精を放ち、決して溺れず。其方の種は与えぬように留意しておれば、朕もこれ以上うるさくは言わぬ」
――いまだ第六室に溺れている癖に、よく言う。
そんな考えが内心浮かんで、朱夏は戸惑う。籠宮からさえ滅多に出さず、誰にも会わせないように囲い込んでいる父は、年々迦陵への執着が深くなっていると漏れ聞こえていた。
溜息を吐き出して、朱夏は立ち上がった。
「夏の宮に妓女を送られても迷惑です。それならば一度、櫻花楼に忍んで参りましょう。烏を供につけます。それでよろしいですか」
「う……む。市井に忍んで行くのは危ういが」
渋い顔をした父に、朱夏は小さく笑ってみせた。
「かつては父上も、お忍びで櫻花楼へ通っていらしたでしょう?私には禁じるのですか?」
朱夏の言葉に、夏勢帝はその瞳を大きく見開いた。




