陸拾肆
私室の扉が閉ざされる。
母との心の距離が開いてしまったような、心細い気持ちが朱夏の内に湧いた。
はっとして頭を振る。何を幼子のようなことを――。
扉をじっと見上げる煌姫に声を掛けた。
「煌、夏の宮へ戻ろう」
「……」
「どうした?」
動かない煌姫にさらに尋ねようとした時、扉が再び開かれた。
「っ!」
思わず煌姫を抱き上げて一歩後ろに飛び退いた朱夏の目に、美紘の侍女芙月の姿が映った。
「日嗣宮さま、申し訳ございません」
ふくよかな体を揺らして歩み寄ろうとする芙月の前に、春香が遮るように立った。
「……お退きなさい」
「申し訳ございません。主君をお守りするのがわたくしのお役目ですので」
「……親王さまのお手つき風情が生意気だこと」
小さな呟きは、はっきりと朱夏の耳に届いた。嘲るような声に憤るよりも先に、煌姫の耳を押さえていた。
「朱夏さま?」
「其方は聞かずともよい」
首を傾げる煌姫の前髪に、誤魔化すようにそっと口づけた。目を丸くして頬を染めた煌姫をしっかりと片腕で抱え、空いた手で煌姫の耳を押さえる。反対側の耳には朱夏の頬を当てて外の声が聞こえないようにして、芙月に目を向けた。
「何用か」
「ご忠告に参りましたの。美紘さまの御前では、憚られましたので」
「……何だ」
警戒するように立ったままの春香の横から、美紘の侍女を睨みつけた。
「これより奥宮を出られると思いますが。第二室さまのお部屋の側は、通られないようにお願い致しますわ」
「第二室どのの部屋?」
「あそこは、わたくしどもも滅多に近寄らないのですが……。煌姫さまのように無垢なお方は、そもそも奥宮においでになるべきではなかったのです」
「……」
芙月に言われずとも、蓮黄に近づくつもりは朱夏にはなかった。細めた瞳の奥が笑っていない第二室になど、できるだけ煌姫を会わせたくはない。
「どこにも立ち寄らず、奥宮を出る」
きっぱりと告げると芙月は大袈裟な身振りで頷いた。
「それがよろしゅうございます。大切な御身、どうぞご大切に」
「……母上のお加減は、実際どうなのだ」
美紘の前では訊けなかったことを、朱夏は意を決して尋ねた。常に美紘の側近く侍るこの侍女ならば、美紘の体調に最も詳しいだろう。
考えるように頬に手を当て、芙月が答える。
「はっきりと申し上げますと、それほどよろしくはありません」
「っ」
「防げなかったわたくしどもにも責はありますが……。毒見役の侍女は長く患った後に絶命致しました」
何でもないことのように語る芙月が、朱夏には急に恐ろしく感じた。
「奥宮とは、そういう場所なのです。ですから、煌姫さまをあまり、お近づけになりませんように」
「……わかった」
毒を盛られること、仕える者が命を落とすことが日常だと。そんな世界を、煌姫に見せたくはない。
朱夏の返事に満足そうに頷き、芙月は部屋へと戻っていった。
重く息を吐き出した朱夏の襟を、腕の中の煌姫が引いた。我に返り、耳を塞いでいた手と頬を離してやる。
「朱夏さま、ないしょのお話でしたの?」
拗ねたような口調につい、朱夏の口元に笑みが浮かんだ。だが、ここはまだ奥宮の最奥なのだ。気を引きしめ、宥めるように煌姫の背を撫でながら足を踏み出した。
「難しい政治の話だ。其方が聞いても、退屈であろう」
歩きながらそう誤魔化すと、煌姫は少し考えた後で朱夏の瞳を見上げてきた。
「わたくしが、もっと大人になったら、おきかせくださいますか?」
「そうだな。私は其方に隠し事はしない。もう少し大人になったなら、政の話も聞かせてやれるかもしれないな」
「はい」
腕の中でしっかりと頷き、煌姫は不思議そうな表情を浮かべた。
「わたくし、歩けますわ?」
「うん。だが、私は一刻も早く帰りたい。夏の宮に戻って、其方と楽しい時を過ごしたいんだ」
「……わたくしの足が、おそいから?」
大股に歩く朱夏の後ろを、春香も早足でついて来ていた。ちらりとそちらへ目を向け、煌姫がさらに続ける。
「はるかのように、早く歩けるようになったら、ごいっしょできる?」
「そのために、其方はこれからしっかり学び、よく食べよく眠って。そうして大きくならねばな」
朱夏の言葉に、煌姫は真剣な顔で頷いた。
再びこの奥宮へ来ることは、朱夏が帝の位に就くまでないだろう。しかし、煌姫は美紘の見舞いに来たがるかもしれない。どう納得させるか、朱夏は思い悩んだ。
日嗣宮朱夏、十六歳の秋のことであった――。




