陸拾壱
夏の宮の夜は更ける。
華やかな祝宴の疲れか、湯を浴びて夜着を纏った煌姫が朱夏の寝所に連れて来られる頃には、瞼が閉じそうになっていた。
寝台に腰掛けて待っていた朱夏は、読んでいた書物を脇にどけて立ち上がった。春香に引かれていた煌姫の手をそっと取る。一瞬、春香と視線が絡んだ。
新緑の瞳の奥に見えた熱を孕んだ気配に気づかない振りをして、朱夏は煌姫の体を抱き上げた。ふわりと、煌姫の夜着から香が香る。
「薫風か。よい香りだな」
「朱夏さまと、はじめての夜だからと、はるかが……」
「そうか。夏の香りだな。嬉しいよ」
煌姫の体を抱き上げたまま、春香に下がるように告げる。一礼して退出した春香が静かに扉を閉めた。
室内に、静寂と煌姫の息遣いだけが残った。
「さあ、煌。ともに眠ろう」
寝台へと小さな体を下ろすと、縋るようにきゅっと朱夏の袖を掴まれた。
「どうした?」
「朱夏さま、おそばに……」
「私はどこへも行かない」
煌姫の体を横たえ、枕元の火を絞る。煌姫の背後に回り、朱夏も寝台に横になった。後ろから、ぎゅっと小さな体を抱き込む。
「お休み、煌」
耳元でそっと囁くと、煌姫が身動いだ。
「煌、どうした?」
「あの、あのね……眠るまえには、口づけをするのって」
耳を真っ赤にした煌姫に、朱夏は小さく笑った。侍女たちの言葉をまた聞かされたのだろう。素直に従う煌姫が愛らしかった。
くるりと己の方へ煌姫の体を向け、紅も引かれていない柔らかい唇にそっと唇を重ねた。
「さあ、もう休まねば」
顔を紅潮させた煌姫が、こくんと小さく頷いた。薄桃色の瞳が揺れるのが、薄明かりの中でも見て取れる。
「おやすみなさい、朱夏さま」
背を優しく叩いてやると、安心したように煌姫が瞳を閉じた。
煌姫の瞳が隠れたことに安堵の息を吐いた朱夏は、慌てて唇を引き結ぶ。今、己は何を思ったのか。何故、愛しい妻の瞳が見えなくなったことに、これほどほっとしたのか。
健やかな寝息を立て始めた煌姫を起こさないように、小さく頭を振った。
「……私は、不誠実だな」
小さく、誰にも聞こえない呟きが闇に溶けていった――。
「……さま、おきて」
耳元で楽しそうに囁く声に、朱夏の意識がぼんやりと覚醒する。常ならば、自力で起きる朝なのに。誰の声かとはっきりしない頭で考える。
「朱夏さま、朝ですよ」
柔らかい声が目覚めの時を告げ、朱夏の頬に指先が触れた。思わずその指を掴まえ、朱夏は己の口元に寄せる。
「しゅ、朱夏さま……」
「……る……ぅ」
「ねぼけていらっしゃるのね。朝ですよ、朱夏さま」
幼い声にはっと覚醒した。ぱちりと目を開けると、間近で薄桃色が覗き込んでいた。
「……てる?」
「はい、わたくしです。夢でもごらんになっていたの?」
くすくすと笑う心地よい声に、朱夏はほっと安堵した。今、己は何か口走らなかっただろうか。
「おはよう、煌」
内心の動揺を押し隠して、朱夏は掴んだままだった煌姫の指先に口づけした。途端に、煌姫の頬が染まる。
「おはっ、おはようございます、朱夏さま」
「起こしてくれてありがとう。気分はいかがかな?」
ゆっくりと身を起こし、煌姫の柔らかい体を抱きしめる。高めの体温が、すっぽりと腕の中に収まり朱夏の気分が落ち着いた。
「とてもよい気分ですわ。朱夏さまは?」
「私もだ。其方とこうして、朝を迎えられたことを嬉しく思う」
見つめ合って微笑んでいると、扉の外からそっと声が掛けられた。
「親王さま、煌姫さま。お目覚めの刻限でございます」
朝の身支度を手伝うために、莉羅がやって来たようだった。
「入れ」
「失礼致します。お手水とお召し替えをお持ち致しました」
別の年若い侍女を引き連れて、莉羅が室内に入ってきた。
「煌を世話してやれ。私はよい」
寝台から立ち上がり、朱夏は煌姫の体を下ろしてやった。見上げてくる妻の頭を撫で、衝立の向こうへと移動する。手早く着替えた。
衝立の陰から出ると、煌姫は莉羅に手巾で顔を拭かれているところだった。
「煌、私は朝の禊に行ってくる。ゆっくりと支度してもらいなさい」
「はい、朱夏さま」
素直に返事を返した煌姫に頷き、朱夏は私室を後にした。
廊下に控えていた烏が、すっと朱夏の背後に立つ。
「どうであった?」
「第二室さまが送りつけてきた女人は、生家の借金の肩代わりをしてもらったようですね。親王さまをその身で籠絡するように、命じられていたようです」
昨夜の内に、蓮黄が媚薬とともに送ってきた女について、烏と別の隠密の三人に調べさせていた。
烏の報告に苦い顔をして、朱夏は宮を出て裏の泉へと向かう。
「送り返したことで、その女に何か不都合はあるか」
「命の危険はないと思われますが」
林までの道を歩きながら、朱夏は考える。
「その者、夏の宮で引き取ってやった方がよいか?」
「賛同致しかねます」
きっぱりとした烏の返事に、朱夏は目を見開いた。思わず、足が止まる。
「烏?」
「どんな毒を仕込まれているかわかりません。煌姫さまがおいでのこの宮に、毒婦やもしれぬ者を入れるのですか」
「……」
険しい表情を浮かべて、朱夏は再び歩きだした。
結局、己の力では、誰のことも救えないのか――。
何年経とうとも褪せない苦い記憶が、朱夏の胸の内に澱を溜めていく。




