伍拾捌
朱夏の背を見送った迦陵は、ほうっと息を漏らした。
宴席の熱気には、まだまだ慣れない。漂う酒の香りと男たちのむさ苦しい空気が、昔から苦手だった。
夏勢帝に腰を抱き寄せられたまま、扇の陰で息を吐いているとぐいっと腕を引かれた。
「今上さま?」
「籠宮に戻る」
「宴は、もうよろしいの?」
迦陵の答えを待たず、夏勢帝は歩きだした。
大内殿を出ようとする二人を、見ている者などいなかった。皆、それぞれの朋輩と酌み交わす酒の味の方が、重要なようだ。
夏勢に腕を引かれたまま、迦陵は足早に歩く。
扉をくぐったところで、一度帝の足が止まった。
「今上さま?」
顔を隠す扇を取り上げられ、唇が触れそうなほどの距離で見つめられる。息を呑む迦陵の細い顎に、夏勢帝の指がかけられた。
「うえ……っ」
誰が通るかもわからないこんな場所で、深い口づけをされて迦陵の心が縛りつけられる。だが、帝の求めには応えなければならない。あの苦界を抜け出したはずなのに、結局自分は遊女のままなのか。
そんな考えが過ってしまった迦陵の唇が、ようやく解放された時には、呼吸が荒くなっていた。
「今上、さま……」
「嫉妬に狂う女の顔というのも、唆るものだな」
「え……?」
再び迦陵の腰を抱いた夏勢帝が、籠宮へと足を進め始めた。大きな手の平から、熱い温度が伝わってくる。
「今宵、朱夏は正室との初夜を迎える」
「……っ、はい」
「煌がまだ幼いから、同衾して眠るだけだろうがな。それでも、世に認められた夫婦の初夜だ」
唇を噛まないように気をつける迦陵に、夏勢は静かな視線を向けた。
「朕の腕の中で誰を想おうと、其方の自由だ。だが、態度に出すな」
「っ!」
「其方の地位を狙う者どもに、隙を見せるな」
冷徹に告げられ、迦陵の鼓動が早くなった。そっと、己の頬に手を当てる。
「今宵は、其方を抱く。逃がさぬ」
「……」
今宵も、ではないのかと迦陵は思ったが、賢くも口には出さなかった。
夏の宮へ戻った朱夏は、煌姫の湯浴みと着替えを秋穂と莉羅に任せ私室へ入った。世話をするために、春香がついて来る。
婚儀の衣装を脱ぐのを春香に手伝われながら、脳裏に縋るような薄桃色が浮かんだ。何故、あんな瞳で己を見ていたのか。父に腰を抱かれながら、救いを求めるような目で自分を見ていた彼女の存在を、追い出すように朱夏は頭を振った。
「親王さま?」
怪訝そうな声にはっと我に返る。
「どうなさいました?」
「何でもない。湯を浴びて、煌の元へ行く」
夜までは、まだ間があった。儀式で疲れた煌姫を、少しでも労ってやりたかった。
「親王さま、失礼致します」
湯殿へ向かおうと足を踏み出した朱夏に、烏が歩み寄ってきて声を掛けた。
「どうした?」
難しい顔をした烏に、朱夏の足が止まる。内密の話だと察したのか、春香が朱夏の脱いだ着物を手に、頭を下げて出ていった。
「第二室さまより、お届け物が……」
「ああ」
本当に媚薬を送りつけてきたのだろうか。
「酒か?女はいないだろうな」
「女、ですか?そう言えば一人来ましたが、それよりも……」
「何だ?」
歯切れの悪い烏に、朱夏は首を傾げた。早く汗を流したい。
「その……親王さまが」
「は……?」
「ああ、いえ。朱夏さまでなく、その……冬廉親王さまが、護衛をぞろぞろ引き連れてお出ましなのですが」
「は!?」
思わず、間の抜けた声が出た。何故、冬廉が夏の宮に――。
「第二室どのも、ご一緒か?」
「いえ、それが。どうも、宴席から冬の宮へ戻られた後、抜け出して来られたようで」
半年ほど前に、ようやく奥宮から冬の宮へ移った冬廉の元へ、蓮黄は足繁く通っていると聞く。今日も、宴席から宮へ送り届けた後で、奥宮へと戻ったのだろう。
本来奥宮から帝の側室は外へ出てこない。それを、愛しい息子に会えないなど酷だと言い募り、夏勢帝の許可をもぎ取ったらしい。寵愛が迦陵へ移っていることへの、後ろめたさも多少はあったのだろう。
額を手で押さえながら、朱夏は溜息を押し殺した。
「約束もなしに押しかけて来たのは冬廉だからな。汗を流して着替えるまで、待たせろ。何があっても、煌には近づけるなよ」
「御意」
音もなく烏が立ち去る。煌姫の護りを固め、冬廉を煌姫の居室から遠く離れた客間で待たせることだろう。
手早く支度を整えなくてはならなくなった朱夏は、頭を振って湯殿へ急いだ。




