伍拾弐
手酷く抱かれた迦陵は、いつものように夏勢帝の寝所で朝を迎えた。
すでに帝は起床し、本宮での朝議に向かった後であった。気怠い体を起こし、床に散らばった夜着を掻き集める。寝台脇の卓に置かれた水をゆっくりと飲み、深く息を吐いた。
迦陵の世話を任されている侍女が、そっと室内に入ってきた。
「第六室さま、お目覚めですか」
「ええ……今上さまは朝議に向かわれたのね」
「はい。第六室さまも、朝のお支度を済ませてくださいませ」
この年嵩の侍女は、遊郭上がりの迦陵にも一応は丁寧に仕えている。帝の寵愛深い迦陵の不興を買わないようにと、心得ているような動きだ。
「……日嗣宮さま、は……」
「朝の早い内にお目覚めになり、夏の宮へお戻りになりました」
「そう……よかったわ」
昨夜のことは、忘れてしまおうと迦陵は思った。帝の世継ぎとして世にも人々にも認められた、尊い親王。己などが、近づいてはいけない人だったのだ。
溜息を押し殺し、迦陵は着替えるために立ち上がった。
夏の宮の朝餉の刻限――。
蓮黄に盛られた薬の熱もすっかり抜けた朱夏は、朝から元気な煌姫を微笑んで見ていた。
「従妹どの。今日は其方の花嫁衣装が届く。明日の婚儀の流れは、もう覚えたか?」
粥を掬った匙を口に運ぼうとしていた煌姫は、きちんと匙を器に戻して頷いた。
「はい、従兄さま。神官がのりとをとなえるのを聞いて、伯父上さま……じゃなかった。うえさまに、従兄さまとのこんいんをみとめていただくのです」
「そうだ。式典が終われば宴に移る。其方の年齢に合わせて、祝宴は昼間に行われる。夕刻には終わるだろう」
今上帝の一の親王であり、日嗣宮となった朱夏と、帝の姪である煌姫との成婚の儀だ。国中から、普段宮中に伺候していない廷臣たちもやって来る。常より騒がしい本宮で、煌姫をしっかり守らなければならない。
朱夏は、傍らに控える烏に視線を向けた。
「警護の調整は、万全であろうな」
尋ねられ、烏は深く頷き胸元に手を当てた。
「こちらに、警護に当たる者の名簿と配置図をご用意致しました。朝議の前に、ご覧いただきます」
「わかった。それと、明日は冬廉も第二室どのに連れられて参列するだろう。煌に近づけないように、気をつけていてくれ」
昨夜の弟の様子を思い出し、朱夏の胸に苦い思いが浮かぶ。
朱夏と烏のやり取りを聞いて、煌姫が不思議そうに首を傾げた。
「従兄さま。とうれんさま、ってどなた?」
「……其方の従弟だ」
「いとこ……従兄さまと、同じ?」
食後の茶が煌姫の前に差し出されたが、手をつけずに朱夏の返事を待っている。
「そうだな。其方にとっては伯父にあたる、父上の息子だから。私と同じく、其方の従弟だ」
「では、同じように従兄さまとよぶべきなのかしら」
頬に手を当てて考え込んだ煌姫に、朱夏は「いいや」と首を振った。
「あちらは冬生まれだから、同じ年でも其方より年下ということになる。呼ぶならば、従弟どのか、或いは名を呼ぶか……」
「とうれんさま、とおよびするの?」
煌姫の口から「とうれん」の名が出るのは、どうにも面白くなかった。挑発的な第二室の瞳を思い出すせいか。幼い弟相手に、大人げない。
苦笑して、朱夏は従妹に答える。
「其方の好きに呼んでやるとよい。明日の式典では、挨拶を受けるだろうから」
「はい」
煌姫の意思を、朱夏の私情で縛るつもりはなかった。恵まれた暮らしを送ってはいても、自由に好きなところを出歩ける生活ではない。せめて、心は自由にさせてやりたかった。
朝餉を終え、花嫁衣装の最終確認をする煌姫を宮に残し、朱夏は本宮へと歩き始めた。
後ろをついて来る烏が、躊躇いがちに声を掛けてきた。
「親王さま、お加減はいかがですか」
「すこぶる快調だ。其方には、心配をかけた」
「いえ、それはよろしいのですが」
「……?」
歩きながら、ちらりと背後に目をやれば、忠実な臣下は神妙な表情を浮かべていた。
「どうした?」
「いえ……」
はっきりしない烏に、朱夏は足を止めて振り返った。気遣わしげな視線が気になる。
「私は、昨夜第二室どのに薬を盛られたのだろう?だが、熱に浮かされていたように、ところどころ覚えていなくてな」
「……」
「何か、失態を犯したか?」
真っ直ぐに見つめてくる朱夏から視線を逸らせず、烏は平静を装って首を振った。
「いえ。今上帝さまがすぐに薬草をお届けくださいまして、吾が煎じてお飲ませ致しました。失態などということは、特に」
「目覚めたのが籠宮で驚いたが。あれは……第六室どのの部屋だったのか?」
烏はその場で膝をついた。唐突な動きに、朱夏の瞳が見開かれる。
「烏?」
「申し訳ございません。夏の宮まで、昨晩の親王さまではお戻りになれないと思い、ちょうど通りかかった第六室さまにお頼り致しました。吾の失態です」
帝の私的空間に足を踏み入れさせてしまった。己一人が責めを負うならば構わない。だが、熱の高かった朱夏が帝に叱責されるのは避けたかった。
しばらく無言で烏を見下ろした後、朱夏は小さく笑って踵を返した。
「父上とて、一服盛られた私を咎めることはなさるまい。くだらないことを言っていないで、行くぞ。朝議に遅れる」
さっさと歩きだした朱夏に、烏は深く頭を下げてから足早に追いついた。




