伍拾壱
掴まれた手首が熱い――。
動けずにいる迦陵に、朱夏が縋りつくように喘いだ。
「……っ、春香……ぃや、煌……?」
「……」
「あぁ、私、は……琉兎」
「っ!!」
掴んだ手首を、朱夏が自身の口元へと持って行くのを、迦陵は呆然と眺めていた。瞳を閉じたまま、朱夏の唇が迦陵の指先に触れる。迦陵の肩が跳ねた。
熱に浮かされた相手だ。手を振り払うことができなかった。けれど、このままでは、取り返しのつかないことになる。迦陵の理性がそう告げている。
どくどくと早くなる鼓動のまま、迦陵は指先から伝わる熱に酔いそうになった。
「何をしている」
地を這うような声が響いた。びくり、と身を震わせて、迦陵は手を掴まれたままで振り返る。
侍女が知らせたのか、宴席を抜けてきた夏勢帝が部屋の入口に静かに立っていた。
「今上、さま……」
「今、何をしていた」
大股に歩み寄ってくる夏勢帝の視線から、迦陵は逃れられなかった。だが、朱夏を振り払うこともできず、身動きできない。
焦る迦陵の表情に何を思ったのか、夏勢はちらりと寝台の朱夏に視線を投げてから迦陵の腕を掴んだ。そのまま、ぐいっと力強く迦陵を立たせる。
その拍子に、迦陵を掴んでいた朱夏の手が離れた。
「う、今上さまっ」
手を離された衝撃か、朱夏が寝台の上で薄く目を開けた。霞がかったような視界に、抱き合う父帝と迦陵の姿がぼんやりと映る。
「……琉兎?」
はっとして振り返ろうとする迦陵の細い体を、夏勢帝は逃がさないというように強く抱き込んだ。
「今上さま、あの……」
「朕以外の男に触れることは、許さぬと前にも申した」
迦陵の細い顎に夏勢帝の大きな手が触れ、くいっと上を向かされる。
「う、今上さま」
「これまで触れずとも許してきたが」
青灰色の瞳に、迦陵は強く射抜かれる。拒絶することを決して許さないと、帝の瞳が告げていた。
「今宵は、許さぬ」
「今上……んんっ」
薄く紅の引かれた迦陵の唇を、夏勢帝が喰らうように自身の唇で塞いだ。朱夏の瞳が見開かれる。
これまで、誰にも許したことのない唇を、朱夏の前で奪われた。その事実が、迦陵の感情に蓋をしようとする。何も考えず、何も感じず受け入れていれば、嵐はすぐに過ぎ去る。
「ん……ゃ……っ」
ようやく離された唇は、夏勢帝の強い口づけで赤くなった。その唇を、太い親指がなぞる。
「其方は、朕だけを見つめることしか、許さぬ」
「……っ」
「烏、もうよいぞ。入って参れ」
直前までの激情が嘘のように、冷静な声で夏勢帝が扉に向けて声を掛けた。
水を注いだ杯を手にしたまま、動けずにいた烏ははっとする。
「仙螺の媚薬を抜く薬草も、運ばせておる。煎じて飲ませろ」
寝台で身動きできない朱夏に視線をやり、迦陵の体を抱き込んだままで夏勢帝が続けた。
「本来なら、精を放つのが手っ取り早いが。ここには其方の相手をさせてやる女がいないのでな。薬草で熱を下げろ」
「……ち、ちうえ……」
「今宵は、この部屋で休むことを許す。熱が治まったなら、夏の宮へ戻るがよい」
それだけ言い置いて、夏勢帝は迦陵を抱き寄せたまま私室を出て行った。振り返ろうとする迦陵の動きを許さず、扉は音を立てて閉じられた。
残された烏は息を吐き、朱夏の枕元に膝をついた。
「親王さま、お加減はいかがですか。お側を離れましたこと、申し訳ございません」
「から、す……ここは」
「第六室さまのお部屋です。今上帝さまが仰せのように、間もなく薬草が届きますので、吾が煎じてお飲みいただきます」
まだ頭がはっきりしないのか、朱夏がぼんやりと頷いた。
「あつ、い……」
「仙螺の媚薬と今上帝さまは仰せでした。煎じた薬草を飲まれ、一晩過ごせば薬の効果は抜けるでしょう」
迦陵が水で絞った手巾を手にし、烏は再び盥の水に浸けた。固く絞り、朱夏の額に乗せてやる。
「薬草を煎じるまで、目を閉じてお休みください」
「……」
朱夏を蝕む熱は、命を奪うようなものではない。繰り返し宥める烏の声に安堵したように、朱夏はようやく瞳を閉じた。
そんな朱夏に、烏が囁く。
「ここでご覧になったことは、熱夜の夢でございますよ。どうぞ、お忘れになってください」
意識を手放しかけた朱夏には、烏の呟きは聞こえていなかった。




