伍拾
朱夏の熱は上がり続ける――。
すでに意識は朦朧とし、もはや夏の宮まで歩けるかどうかも怪しい。
烏は咄嗟の判断で、周囲に人目がないことを確認して朱夏の体を抱え上げた。
鍛錬によって随分逞しくなってきているが、それでもまだ成長途中の体を持ち上げることなど、烏には容易だった。
「親王さま。このまま夏の宮へ戻られるのは難しいようです。許可は後で取りますから、籠宮へお連れします」
帝の私的な空間へ、許可なく立ち入れば罰せられる。だが、今の状態の朱夏をその辺の部屋に押し込めることもできなかった。急な異変によるものだ。帝の許可は取れるだろう。
一歩踏み出そうとした烏の背から、軽やかな声が掛けられた。
「……朱夏親王さま?」
肩に担いだ朱夏の顔を見られないように留意していたというのに、烏は主の名を呼び留められて舌打ちしそうになった。慎重に、振り返る。
侍女と護衛を引き連れた迦陵が立っていた。宴のために、常よりも華やかに装った彼女が、扇で顔を隠したまま首を傾げている。
「どうなさったの?」
朱夏を担いだまま、烏は器用に頭を下げた。
「ご無礼を致しました。第六室さまこそ、何故こちらに?」
「宴席の熱気に当てられて、先に下がらせていただいたのだけど。日嗣宮さまはどうなさったの?」
再び問われ、烏は仕方なく口を開いた。
「主の調子が優れませんので、籠宮にお連れしようかと……」
扇の向こうで、迦陵の瞳が丸くなった。
「籠宮に?今上さまのお許しは……」
「後から許可を取るつもりでおりました。一刻も早く、主を休ませたく」
迦陵が背後の侍女を振り返った。
「貴方、今上さまに伝えて来てくださる?日嗣宮さまに、わたくしの部屋でお休みいただくわ」
「!?」
告げられた内容に、烏の方が驚いた。帝の寵愛深い室が、息子とはいえ年若い男を部屋に入れるなど、許されることではない。
侍女も同じことを思ったのか、顔を顰めて首を振った。
「なりません、第六室さま。今上帝さまのご不興を買うおつもりですか」
「ご自分の御子さまのことだもの。きっとお許しになるわ」
「軽はずみなことを……」
なおも小言を続けようとする侍女を遮り、迦陵がぱちりと扇を閉じた。
「ここでこうして、言い合っている時が惜しいわ。貴方が渋っている間に、日嗣宮さまに何かあったなら、責任を取れるの?」
「っ!」
「そうなったなら、今上さまは貴方こそを咎めるのではなくて?」
迦陵の言葉に、年嵩の侍女は渋々といった態度で踵を返した。
ほう、と息を吐いて、迦陵が烏に向き直る。
「行きましょう。わたくしのお部屋へ、案内するわ」
「……」
「何も日嗣宮さまと二人きりになるわけではないのだから。それほど警戒することはないでしょう?」
さっさと歩きだす迦陵を、烏はしばし逡巡した後で追いかけた。その後を、さらに迦陵の護衛が追ってくる。
迦陵の身の回りを固めるのは、夏勢帝の意向ですべて女人であった。数の少ない女性の武官を、すべて迦陵につけたと言われているほどだ。
静かな表宮を通り抜け、籠宮に足を踏み入れた烏は大人しく迦陵の後に従った。まずは朱夏を休ませるのが先決と、腹を括ることにしたのだ。肩に、朱夏の熱が伝わってきて容態が案じられる。
最奥の部屋の扉を迦陵が手ずから開け、烏たちを室内へと招き入れる。ふわりと香る伽羅の香が、朦朧とした朱夏の意識を少し覚醒させた。
「……ここ、は……」
「親王さま、お気を確かに。今、御身を寝台に」
言いかけて、烏は躊躇った。迦陵が指しているのは恐らく彼女の寝台だ。素直に朱夏を寝かせてもいいものか。
立ち止まる烏に、迦陵が微笑んで声を掛けた。
「ここに、今上さまが寝ることはないから、大丈夫よ。ご体調が悪いのだもの。叱られることはないでしょう」
「……」
「日嗣宮さまを、早くお楽に」
迦陵の言葉に、意を決して烏は寝台に近寄った。慎重に、朱夏の身を横たえる。
荒い息遣いの朱夏が、うっすらと瞳を開けた。
「……か、らす……」
「今、水をいただいて参りますから。目を閉じて、少しでもお休みください」
「お水ね。わたくしがお願いしてくるわ」
足を踏み出しかけた迦陵を引き止め、烏は首を振った。
「吾がこの手で用意します。主の口に、誰の手がついたかもわからないものは、入れられません」
「……」
「主君の様子を、見ていていただけますか」
烏の言葉に、迦陵が探るような瞳を向ける。
「貴方の大切な主君に、わたくしのような女がついていていいの?」
「……貴方には、貴方のお立場がおありでしょうから。軽率な真似はなさいませんよね?」
「勿論よ」
即答した迦陵に頷き、烏は水を用意するため私室を出ていった。扉の側に、迦陵の護衛が静かに立った。
寝台の側に膝をつき、迦陵は朱夏の様子を眺める。辛そうな呼吸と、赤い顔。額には汗が浮かんでいる。
枕元の手巾を盥の水で絞り、そっと朱夏の額に当てた。汗を拭こうと、そう思っただけだった。
迦陵の細い手首を、熱い手が掴んだ。
「っ!」
「……だ、れだ」
喘ぐような声で呟いた朱夏は、周りがよく見えていないようだった。荒い呼吸のまま、迦陵の手首を掴んだ手には力が入っていない。
しばらく迷って、迦陵は朱夏の耳元に唇を寄せた。
「……朱夏さま。汗を拭きますわ」
「……はる、か?」
朦朧とした朱夏が呼んだのは、将来の伴侶の名でも、今目の前にいる迦陵の名でもなかった。




