肆拾玖
とろりと白濁した酒が、朱夏の盃に注がれた。
仙螺家から献上された、成人と立太の祝い酒――。嗅いだことのない甘い香りが、それだけで朱夏を酩酊させそうだった。
大勢の廷臣たちが見守る中、朱夏は一息に酒を飲み干した。多少の毒ならば、たとえ仕込まれていてもこの身は躱せる。十の頃から少しずつ、夕餉の際に毒に馴らされてきたのだから。
政敵とも言える立場の蓮黄から献上された酒を、豪快に飲み干した朱夏に廷臣たちからどよめきが漏れた。そこかしこで、密やかな会話が交わされる。
「何と豪胆な……」
「さすがは、夏生まれの君ですな」
「左様。今上帝も夏の君ですからな。血は争えないということでしょう」
ひそひそとした会話も、朱夏の耳にはあまり入らなかった。
酒を飲んだ瞬間、体の奥が燃えるように熱くなったからだ。
「しかし、第二室さまも、なかなかに大胆な……」
「隣に大臣がおいでですのに」
「今更、今上帝さまのご寵愛が戻ることなどないでしょうになぁ」
どこからか聞こえてきた言葉に、蓮黄の目が吊り上がった。だが、緋扇で優雅に顔を隠し、朱夏から視線を逸らさない。
「日嗣宮さま。当家の果実酒のお味はいかが?」
「ああ……随分酒精が強いようだが。悪くない味だ」
やっとの思いで口にした感想に、蓮黄は気をよくしたように微笑んだ。ねっとりと、絡みつくような視線を朱夏に投げたまま。
水で口をゆすいでしまいたかったが、廷臣たちの手前、何とか朱夏は体の熱を堪えた。
「それでは、わたくしどもはこれで失礼致しますわ。冬廉は、そろそろ就寝の刻限ですもの」
「ははうえっ!わたしはまだ、ねむたくありません!」
「まあ、大人のような口を利くこと。ですが、きちんと休まねば、大きな男にはなれませんよ」
慈愛深い口調で息子を窘め、蓮黄は大臣と冬廉を引き連れて朱夏の前から去って行った。
荒い息遣いを繰り返す朱夏に、夏勢帝が気遣わしげに声を掛けた。
「朱夏、これより宴は身分の垣根を越えたものとなる。大方挨拶も終えたであろう。宮に下がるがよい」
「ですが……」
「其方が主役の席で、その顔色を晒すな。宮に戻り、烏なり侍女なりに介抱してもらえ。最早、誰も其方を見てはおらぬ」
父に言われ、朱夏は回らない頭で周囲を見回した。皆、それぞれの朋輩と酒を酌み交わし、赤い顔で笑い合っている。
「ちち、うえ……」
「其方は、第二室をよく抑えた。献上された酒を飲み干したのも立派であった。今宵の務めは果たしたであろう。下がれ」
冷徹な言葉のように聞こえるが、そこに確かに父の情を感じ取り、朱夏は丁寧に頭を下げた。このまま留まれば、熱に浮かされ失態を犯しそうだ。
「御前、失礼致します」
「うむ。ゆるりと休め」
ふらつく頭を抑えて立ち上がった朱夏に、控えめな声が掛けられた。
「お体お大切に、日嗣宮さま」
帝に腰を抱かれたままの迦陵であった。ちらりと目を向けた朱夏の瞳に、心配そうな表情が映る。
「お言葉、ありがたく……」
立っているのもやっとだった。無様を晒す前に、朱夏は宴の席を抜け出した。
人々が宴会に集い、人影もまばらな本宮の廊下を、朱夏はふらふらとした足取りで歩く。
夏の宮までの道のりを、これほど遠く感じたことはなかった。体の奥が焼けるように熱い。やはり毒でも入っていたのだろうか。普段からそれほど飲むわけではないが、酒で感じるただの熱ではないように思えた。
壁に手をついて支えにし、緩慢に足を進める。少し歩くだけで息が上がった。
音もなく、烏が忍び寄ってきた。廷臣たちから見えない場所に控えていたはずだが、どこかから宴席での様子を見ていたのだろう。
「親王さま。毒ですか」
耳元で囁かれ、朱夏の足がとうとう止まった。
「わからぬ。だが……命の危機と、いうほどのものでは、なさそうだ」
途切れ途切れにしか答えられなかった。はあっ、と吐き出した息が熱い。
「ご無礼致します」
烏の手が朱夏の額に当てられた。ひんやりとした感触が心地よい。
朱夏の熱を確かめた烏が、眉を寄せた。
「やはり少し熱いようですね。夏の宮まで歩けますか」
「……ん。歩く」
差し出された烏の手を断り、朱夏は再び一歩踏み出した。
頭がぼんやりと霞む。体の熱を放出したいような、奇妙なむず痒さが全身を包んでいた。
朱夏の様子をじっと観察しながら、烏は難しい表情を浮かべた。この症状は、毒というよりも――。
このまま主君を宮へ帰してもいいものか、烏は掴みかねた。取り返しのつかないことにならないように、寝台までつき添わなければ。それとも、このまま本宮のどこかの部屋で休ませた方がいいだろうか。
ふらふらと歩く朱夏の後を追いながら、烏は最善を考え続けた。




