肆拾陸
四季の国の本宮は、政を行う表宮と、帝の私的な空間である籠宮に分かれている。
籠宮の最奥に帝の私室と寝所があり、第六室となった迦陵はその隣に部屋を与えられていた。
だがこの一年、迦陵が自室で休めたのは月の障りが来ている間だけだった。夜毎、夏勢帝に召されるためだ。
執務を終え、湯浴みを済ませた帝が寝所へ入ってきた。夜着を着込んで控えていた迦陵は頭を下げる。床に額づく拝礼は、入内の際に禁じられた。櫻花楼では客相手に行っていたが、帝の室となったからには奴隷の拝礼は決してするなとの命令だ。
どさりと寝台に身を投げた夏勢帝の足元に回り、迦陵は慣れた手つきで彼の裾をめくった。
ゆっくりと、鍛えられた足を撫で、指で圧を加えながら凝り固まった肉を解していく。
「……朱夏に絡んだそうだな」
「え……っ?」
目を閉じたまま迦陵の指に身を委ねていた夏勢帝が、ぽつりと呟いた。迦陵の手の動きが止まる。
「まだ、忘れられぬか」
「今上さま?」
小さな呟きを拾いきれずに聞き返すと、夏勢は目を開けて足元に座る迦陵をじっと見つめた。青灰色の瞳が、僅かに昏さを増したように感じられる。
「何と仰せになられました?」
再び夏勢への指圧を始めた迦陵の手首を、身を起こした夏勢が掴む。
「今上さまっ?」
ぐいっと強く引き寄せられ、迦陵の細い体は夏勢の逞しい腕の中に容易に囚われる。
帝の膝の上に座る格好となった迦陵は、頬を染めて身動いだ。
「もう、足はよろしいの?」
執務に疲れた夏勢帝の、慰めとなるのが己の務めだった。そう、理解している。心を殺すことなど、櫻花楼で嫌というほど慣れさせられたのだ。
厚い胸板に手を添え、迦陵は己を囲い込んだ男を下から覗き込む。
「夏勢さま?」
閨では名を呼ぶように、繰り返し請われた。夏勢の唇が迦陵の額に落とされる。
目を閉じた迦陵の髪を、優しい手つきで撫で始めた夏勢は溜息を漏らした。
「其方には、本宮を好きに出歩いてよいと言うてあったが」
「はい」
「朕以外の男に、触れることも触れさせることも許さぬ」
「……はい」
薄茶色の髪を撫でながら、夏勢の手が徐々に迦陵の体を下へと下りてくる。
あぁ、また始まるのだ。迦陵は胸の内で決意を固める。目を閉じて、嵐が通り過ぎるのを待つだけの時間がやって来る。
帝を前にすると、荒波に漕ぎ出す船に乗ったような心地に迦陵はなる。己の足ではとても立てず、流れに身を任せるしかなくなるのだ。
いつの間にか、迦陵の身は寝台に横たえられていた。上から、夏勢が覆いかぶさってくる。
櫻花楼に通っていた時から、夏勢は迦陵の唇に触れることは決してなかった。その代わりのように、褥の中では激しく迦陵の体を貪る。
そして、迦陵の心を壊すもう一つ――。
「……ひいらぎ」
閨事の最中、夏勢は時折迦陵をそう呼んだ。
初めて呼ばれた時は、何を言われたのかわからなかった。己は、何と答えたのだったろう。
それはわたしの名前ではないと、反抗したのだったか。そうして責められ、咎められて諦めてしまったのだったろうか。その頃の記憶は曖昧で、辛くなるだけのような気がして迦陵は考えることをやめた。
受け入れていれば、帝は優しくしてくれたから。辛いお勤めも、あの人の義母という立場も、考えなければ心にさざ波が立つことはない。
ただ、寵愛をくれる帝に、真摯に仕えていればそれでよかった。
宮中に入って初めて、「ひいらぎ」というのが帝の弟の、亡くなった正室の名だと知った。
そして、朱夏の許婚の生みの母の名だということも。
会ってみたいと思った。朱夏に愛され、大切にされる高貴な姫君。世界から愛されるために生まれたような、朱夏の従妹姫。
春日の葬儀で初めて垣間見た。己と同じ色を持つ、父を失った悲しみを湛えてなお、凛と立っていた美しい幼い姫君。
胸の内を、強烈な炎に焼き尽くされるようだった。そんな己に驚いた。まだ、そんな心が自分に残っていたなんて。
わたしには決して立てない、朱夏の隣という明るい光の当たる場所――。
どうして、わたしはこちら側にいるの?
考えても仕方のない思いが胸の内を渦巻き、その夜は帝の寝所で常になく乱れた。
帝の逞しい腕に抱きすくめられて、その寵愛に縋りついたのだ。
こんな己が、朱夏に見つめてもらえるわけはなかったのに。
どうして、声など掛けてしまったのか。
夏勢の腕の中、迦陵の心は乱れ続けた――。




