肆拾伍
新緑に囲まれた夏の宮の建物を目にし、朱夏は安堵の息を吐いた。
強く握り込んだ拳が、力を入れすぎたせいで白くなっていた。ゆっくり、強張った体を解す。
扉脇に控える近衛の武官が、深く頭を下げて扉を開いた。中から、軽い足音が聞こえてくる。
「従兄さまっ。お帰りなさいませ!」
飛び込んできた小さな体を受け止め、朱夏は微笑みを浮かべた。いつものように抱き上げる。
「ただいま、従妹どの」
「あっ、従兄さまっ。わたくし、もう子どもではなくてよっ」
「確かに、少し重くなったような……」
「そっ、そういうことを言うのは、しつれいなのよっ」
頬を膨らませた従妹に、朱夏は堪えきれずに吹き出した。
「すまない。従妹どのが愛らしくて、つい意地の悪いことを言った。許せ」
「……ゆるしてさしあげます」
床に下ろそうとした煌姫の小さな手が、朱夏の頬に伸びてきた。
「従兄さま?」
「どうした?」
「どうなさったの?赤くなっていらっしゃるわ」
六つになり、ますます帝一族の姫君らしくなってきた煌姫が、心配そうに朱夏の顔を見つめた。
「先ほど、痒くて乱暴に擦ってしまったからな。少し時が経てば治まる。案ずることはない」
「おくすり、ぬりますか?わたくしがお手当してさしあげる」
「いや、大丈夫だ。ありがとう、従妹どの」
煌姫の体を下ろし沓を履き替えた朱夏は、宮の内をゆっくりと歩きだした。
どこまでも絡みついてきそうだった瞳と違い、煌姫の薄桃色を見ていると心が安らかになるような気がする。いや、己の態度がよくなかったのか。
朱夏は自問するが、答えは出なかった。
夕餉を終えて煌姫を私室へと送る。久しぶりにゆっくりとした時を過ごし、朱夏の胸は満ち足りていた。
昨年までは好き嫌いがあり、山菜などをあまり口にしたがらなかった煌姫が、今夜はしっかり残さずに食べていたことに感心した。思わず褒めると、頬を染めて「わたくし、もう六つですもの」と胸を反らす様子が愛らしい。
部屋の前で就寝の挨拶をしようとする朱夏に、煌姫が繋いだままの手をそっと引く。
「従妹どの?」
「ね、従兄さま。もう少しおはなししたいわ。お入りになって」
「いや、しかし……」
幼いといえども女性の部屋だ。夜更けに足を踏み入れることは躊躇われた。
「いいなづけですもの。それに、従兄さまはおへやにお入りになったことがあるのですから、少しくらいよいでしょう?」
純粋にこちらを見上げる瞳は、室内の明かりを受けて煌めいていた。名残り惜しくて、もう少し話をしていたいだけなのだろう。
ちらり、と後ろに控える秋穂に目をやると、心得たというように頷いた。一歩、前に進み出る。
「姫さま、よいですか。親王さまはお仕事でお疲れなのですから、あまり遅くまでお引き止めになってはなりませんよ」
諭すような侍女長の言葉に、煌姫が頬を膨らませる。
「わかっているわ。わたくし、従兄さまのおつかれを、少しでもいやしてさしあげたいのだもの」
「ようございました。共寝したいなどと、我儘を言われてはなりませんよ」
「……っ、ごほっ」
思わず咽せた朱夏に、煌姫が不思議そうな顔を向けた。
「従兄さま?」
「あぁ、いや。済まぬ。……秋穂、余計なことだ」
「失礼致しました。それでは、あまり夜更かしなさいませんように」
軽く睨んでしまった朱夏に頭を下げ、秋穂は微笑んで立ち去った。
一つ息を吐き、煌姫に手を引かれるまま朱夏は室内に入った。出迎えた春香と莉羅が、静かに扉を閉じる。
「ね、従兄さま。これは、今日ししゅうをしたのよ」
弾むような足取りで私室の中を進んだ煌姫が、椅子に置かれたままだった絹地を手に取った。
「ここに座ってね。よるのお茶をいれてもらいましょう」
小さな手で椅子をぽんぽんと叩く従妹に苦笑し、朱夏は示された場所に腰を下ろした。隣に、煌姫が座る。
「これはね、はるかに教えてもらいながらししゅうしたの。さくらのお花なのよ」
「上手にできているな。其方の瞳と同じ色の絹糸を使ったのか」
「はるかがね、じょうずにできたら従兄さまにさしあげてはどうかと言うの。でも、従兄さまには少し、お色がおとなしいかしら」
難しい顔で頬に手を当てる煌姫の頭を、朱夏はそっと撫でた。背後で、春香と莉羅が就寝前の茶を淹れている音が静かに聞こえる。
「其方が贈ってくれるのなら、私にはどんな物でも、宝となろう」
「ほんとうっ?」
「ああ。だが、其方の体が損なわれては困る。ゆっくりでよいから」
「はい」
素直に頷いた煌姫に、朱夏もしっかりと頷きを返した。
夏の宮での夜は、穏やかに過ぎていく。いつまでも、こうして従妹の天真爛漫さに触れていたいと、朱夏はそう願った。




