肆拾肆
迦陵の微笑みから目を離せなかった。
何故、朱夏にそんな顔を向けるのか。何故、父の室となって寵愛されている今、こうして言葉を交わそうとするのか。
ぎり、と奥歯を噛みしめる朱夏に迦陵が一歩、近づいた。
「……っ」
動けない朱夏の耳元に、迦陵が唇を寄せる。扇で、口の動きは読めないように隠しながら。
「第六……」
「わたしの名前は、琉兎よ。忘れてしまったの?」
「っ!!」
耳元で囁かれ、朱夏は思わずきつく目を閉じた。ふわりと香る伽羅の香りが、朱夏の思考を縛りつけるようだった。
「ねぇ、もうわたしの名前を、呼んでくれないの?」
「……やめ、ろ」
「お父さまに抱かれるわたしのことなど、穢らわしくて見ていたくない?」
「やめてくれ……」
ずるずると、朱夏の身がその場で崩れ落ちた。壁に背をつけたまま、床に尻餅をつく。
顔を両手で覆う朱夏の側で、迦陵がしゃがむ気配がしてはっと目を開けた。
目の前で、己を映す薄桃色が揺れていた。
「どうして、貴方だけ、光り輝く道を行くのかしら」
尋ねているようで、答えを期待してなどいない調子で、迦陵が呟いた。
「あの夏のことを、覚えているでしょう?」
「こんな場所で、そんな、話を……」
「じゃあ、どこかで二人きりで会ってくれるの?」
しゃがんだまま首を傾げる迦陵に、朱夏は緩く頭を振った。
「そんなこと、できるわけ……」
「どうして?貴方は親王さまで、わたしは帝のお妃さま。誰にも咎められたりしないわ」
ふふっと笑う迦陵の表情は、朱夏の遠い記憶を呼び覚ました。
夏の宮の裏にある禁域の泉。
朝の禊のために訪れた朱夏の眼前に晒された、真っ白な背中。
そして、「内緒にして」と囁いた、悪戯っぽい幼い笑顔。
懐かしく愛おしく、とても悲しい思い出だった。
振り切るように頭を振って、朱夏は立ち上がった。見上げてくる迦陵に、手を差し出す。
「第六室どの、お戯れが過ぎますね。私は貴方の夫君の息子です。とは言え私も男子ですから、あまり近寄りすぎてはいけません」
親王としての態度を崩さず告げれば、迦陵の瞳が見開かれた。扇で隠しきれていない口が、ぽかんと大きく開いている。
「お話相手が欲しいのでしたら、執務室までお送りしましょう」
「……」
「それとも、男に声を掛けたかっただけですか?それでしたら、私はご期待には沿えませ……」
ぱしん、と乾いた音が辺りに響いた。長く伸ばした爪が当たったのか、朱夏の頬に朱色の線が走る。
青ざめた侍女たちが駆けてくるのを手で制し、朱夏は迦陵を見下ろした。
「気は済んだか?私は、其方のものにはなれぬ。其方が、私のものではないように」
「……っ」
「このような往来で、こうして私に絡んできたことは咎めぬ。評判を落とすのは、其方の方だから」
差し出していた手を引っ込めて、朱夏は迦陵に背を向けた。
控えていた侍女たちを手招く。
「第六室どのは、お疲れのご様子だ。父上の元まで、きちんと送り届けよ」
それだけ言い置いて、返事も待たずに朱夏は歩きだした。
叩かれた頬がじんじんと熱く痛んだが、振り返らなかった。
壁際に取り残された迦陵に、侍女たちが手を差し出す。
それを無視して立ち上がると、別の侍女が乱れた裾を整えた。
「第六室さま、軽率なことはなさいませんよう、お願い致しますわ」
年嵩の侍女に窘められ、迦陵は再び扇で顔を隠した。奥宮を出る時に、他の側室たちから羨ましがられた。本宮を自由に歩き回れるなんて、ご寵愛が深くて羨ましいと、嫌味混じりの言葉を投げつけられた。
宮中を歩けるからと、何だというのだろう。何一つ、自分の思い通りになることなどないのに。
手の平が痛い。何故、朱夏の頬を叩いたりしてしまったのだろう。
久しぶりに顔が見られて、嬉しくて声を掛けただけだったのに。どうして、あんなことを口走ってしまったのか。
あの優しい声に、二度と名前を呼ばれないのが切なかったのか。
涙を忘れた乾いた瞳が、朱夏の立ち去った方向をじっと見つめていた――。




