肆拾参
夏勢帝の弟君、春日親王の喪が明けた――。
父と酒を飲み交わしてから一年が過ぎ、朱夏は十六を迎えた。その間、執務に携わるようになり、近頃煌姫と過ごす時間を思うように取れない日が増えている。
夏の暑さを越え、秋になれば朱夏の成人の儀と立太の儀が行われる。その直後には、煌姫との成婚の儀も予定されていた。
父の執務の補佐を終えて本宮を辞し、夏の宮へと戻る道すがら、前方から歩いてくる人影に朱夏は目を瞠った。宮中に仕える者も、都に暮らす民も、この夏に喪の装束を脱いだ。華やかな色彩に戻りつつある本宮の中で、一際煌びやかな出で立ちで歩いてくるのは、本宮に部屋を与えられている第六室、迦陵であった。
朱夏は壁際に身を寄せ、目を伏せた。父の室である彼女の方が身分としては高いが、帝の直系である朱夏が頭を下げる必要はない。ただ、視線を合わせないようにするだけだ。
侍女と護衛を引き連れ、爽やかな水色の衣を身に纏った迦陵は、白い紗の裳裾をたなびかせて本宮を歩いていた。
控える朱夏の前で、迦陵の足が止まる。濃紺の扇で顔を隠した彼女の瞳が、壁際の朱夏を捉えた。
「ご機嫌麗しゅう、朱夏親王さま」
「……第六室どのにおかれましても、ご機嫌麗しゅう」
「宮へお戻りですか?」
挨拶だけで立ち去るかと思ったが、迦陵は朱夏と言葉を交わすつもりのようだ。連れていた侍女たちを会話の聞こえない場所に控えさせた。
「はい。本日の仕事は終えましたので」
「優秀とお聞きしています。お時間がありましたなら、わたくしとお茶でもなさいませんこと?」
何故、己を誘うのか。帝が強く望んで入内し、寵愛を欲しいままにしているのだから、父帝と茶でも何でもすればよいのに。最近あまり構ってやれない従妹と、これから穏やかな時を過ごすつもりであったのだ。早く戻ってやりたい。
そんな思いが顔に出ていたのか、朱夏の表情を見た迦陵の瞳が丸くなった。
「まあ……怖いお顔」
からかうような声音に朱夏の頭がかっとなった。だが、声を荒げるような真似はしない。
「ご不興を買ったようですね。急ぎますので、御前失礼致します」
軽く会釈して通り過ぎようとした朱夏の袖を、細い手が掴んだ。離れて控える侍女たちから、どよめきが上がる。
「……お離しを、第六室どの」
「わたくしといるのは、そんなに嫌?」
「っ!」
迦陵の狙いがわからず、朱夏の眉が寄った。何故、己に構うのか。放っておいてくれれば、それでいいのに。
溜息を隠して、朱夏は節度ある態度を続ける。
「何を聞かれているのかわかりかねます。父上の元へ行かれるのでは?」
「今上さまなど、お待たせすればいいわ。いつも強引に呼びつけるのですもの」
袖を掴まれたまま、朱夏はきつく瞳を閉じた。脳裏に、常に迦陵の細い腰を抱く父の姿が浮かんだ。
頭を振って目を開ける。
「父に叱られるのは御免です。お離しください」
「……ご婚儀が近いとお聞きしました」
「それが何か?」
口元を扇で隠したまま、迦陵が軽く首を傾げた。しゃらり、と髪飾りが揺れる。綺麗に結い上げられた、薄茶色の髪はよく手入れされて艶めいていた。
「ご側室も、お迎えになるの?」
「は……?」
「よくご寝所に呼ぶ方がいるのでしょう?」
何故、そんなことを迦陵が知っているのか。夏の宮に、隠密などは忍んでいないはずだった。烏を筆頭とした朱夏の護衛たちが、常から目を光らせているのだ。
「第六室どのには、関わりのないこと」
「どうして?わたくしは、貴方さまの義母上ということになるのでしょう?」
不思議そうに尋ねられ、思わず朱夏は叫んだ。
「義母などとっ、思ったこともない!」
掴まれた腕を振り払い、我に返る。こんなに人目の多い場所で、失態を犯したことに唇を噛んだ。
ふう、と息を吐いて迦陵を見つめる。
「失礼致しました。私にとって母とは、父の正室美紘ただ一人ですので」
「では、わたくしのことはどう思っていらして?」
……しつこい。幼い己が救ってやれなかったことを、今になって責められてでもいるのだろうか。
「父上のご寵愛深い、第六室どのだと思っておりますよ」
「それだけ?」
「他に、どのような答えをお望みですか」
思いの外冷たい声が出た。だが、朱夏は迦陵を正面から見つめて視線を逸らさなかった。
父に囲われている立場で、何故己を惑わせるようなことを言うのか。腹の底に言いようのない怒りが溜まるのがわかった。
朱夏のきつい言葉にしばらく考える素振りを見せた後で、迦陵は扇をずらして顔を晒した。侍女たちが息を呑む気配がしたが、気にする様子もない。
赤い紅の引かれた唇が、ゆっくりと引き上げられる。
「っ!」
嫣然と――。
そう形容するしかない、美しい微笑みを浮かべて迦陵は朱夏を見据えた。




