肆拾弐
酒を注ぐ音が静かな室内に満ちる。
朱夏は頭の芯がぐらつくのを感じ、虚ろな瞳で父を見つめた。
「……言いたいことがあるなら聞くぞ。なかなか、こうして二人で語れる機会は持てぬからな」
「いえ……ご寵愛、が……深いのですね」
喘ぐような息子の声に、夏勢は苦笑を浮かべた。
「朕は欲しいものは手に入れる」
強い言葉に朱夏は息を呑んだ。
「朕が望んで手に入らぬものなど、この世にはない」
「ちち、うえ……?」
「そのために犠牲にしたものとて、多くある」
酒を呷り、夏勢は息を吐く。
「そうだな……。其方は、いずれ朕の跡を継いでこの国を治めていかねばならぬ。国という大きな船の舵取りを任されるのだ。その肩に、民の暮らしすべてが乗っていると心得よ」
「っ!」
真剣な父の口調に、朱夏はふらつきながらも背筋を伸ばした。
「其方に教える師から、真面目に取り組み国の行く末を考え、体もきちんと鍛えていると報告が上がっておる。其方を嫡子として、朕の後継者とすることに何の不満もない」
父から、そう評されるのは初めてだった。
「春日の喪が明ければ、成人とともに立太の儀も執り行うつもりでおる」
一気に酔いが醒めるような気がした。頭の奥が鈍く痛むが、父の言葉を漏らさず聞こうと意識を集中させる。
「民をよく守り、導き、宮中の家臣たちも転がしていかねばならぬ。其方が想像するよりも、重圧がかかる。心を押し潰されそうになることも、あるやもしれぬ」
「はい」
「その分、外に癒しを求めることも、時には必要だ」
「……」
夏勢がさらに酒を注いだ。すでに、酒瓶は空になりそうだった。
「朕は、手に入れた。だが、それは他の誰かから奪ったことになるのやもしれぬ」
「……っ」
「それを悔いるくらいなら、初めから手を出すべきではない。遠くから眺めるだけに留めるべきだ」
父は、誰の話をしているのか。己は今、何を聞かされているのだろうか。
頭のどこかではわかっていた。だが、理解を心が拒否しているような気分だった。
「其方には、これ以上ない尊き伴侶がいる。得難いものだ。大切に慈しみ、守ってやるとよい」
「……そのつもりでおります」
「春香は、第二室に迎えるのか?」
唐突な問いに朱夏の肩が跳ねた。己の私生活など、父帝には筒抜けということか。
唇を噛み、朱夏は父を正面から見つめ返した。
「いいえ。私は、煌一人だけを愛し、妻として守ります」
「そうか」
盃から手を離し、夏勢はさらに続ける。
「其方の側付きとしてよく仕えた報奨に、春香の生家は再興させる手配がされておる」
「っ!」
「だから、其方が室として迎えたいのなら、身分は問題ないが」
それが、春香が己に寄り添おうとした理由か。
何故朱夏の側に侍るのか、その理由を頑なに「慕っているから」と言い続けた春香に、腹は立たなかった。ぬるま湯のような甘さをくれる春香に、縋っている自覚もあった。
「たとえ春香が望んでも、そして私が望んだとしても。煌が傷つくのならば、側室は不要です」
「ならば、春香はどこぞの家臣に下賜するのか?」
親王の手がついた年若い侍女。貰い受けたがる男は多いだろう。
その後の出世は約束されたようなものだ。
「それ、は……」
「今すぐに結論を出さずともよい。人の気持ちは変わるものだからな」
そう言って、夏勢は立ち上がった。
「思いの外、長居をした。今宵は初めての酒で酔ったであろう。早めに休め」
見送ろうと腰を浮かせかけて、朱夏はふらついて卓に手をついた。
「無理を致すな。烏でも呼んで介抱してもらえ」
それだけ言い置いて、夏勢はしっかりとした足取りで朱夏の私室を出ていった。
あんなに飲んでいたのに。対する己の無様さに、朱夏は溜息を漏らした。
衣を脱ぎ捨て、重たい体を寝台に横たえた。
枕元の蝋燭の火を絞り、目を閉じる。父と話している間に、すっかり夜は更けてしまった。汗も流していないが、このまま眠ってしまいたかった。
閉じた視界に、薄桃色が浮かんでは消える。涙を溜めた瞳。縋るように伸ばされる白く細い手。
新緑の瞳が細められる。口元の黒子をなぞる朱夏の指先に、くすぐったそうに触れる手は、誰のものであったか――。
誰を想っているのか、誰に想いを寄せればいいのかわからなくなって、朱夏は深い夢の中へと落ちていった。
朱夏親王十五歳、惑いの秋であった――。




