参拾玖
父の執務室を辞し、夏の宮への帰途に着こうとしてい朱夏は、ふと後ろから呼び止められた。
「……朱夏親王さま?」
柔らかで、どこか欲を孕んだ涼やかな声。足を止めた朱夏が振り返ろうとするのを、烏が制した。
「親王さま、お戻りが遅れます」
「だが……」
「ご機嫌麗しゅう、朱夏親王さま」
名指しされては、顔を見せないわけにもいかなかった。庇うように立つ烏を押しのけ、朱夏は声を掛けてきた相手に視線を向けた。
黒の衣をきちんと着込み、薄墨の裳を揺らして迦陵が立っていた。夏の装いらしく、透ける紗で作られた装束を優雅に纏っている姿は、帝の室として不足ない姿である。
濃紺の扇で口元を隠し、じっとこちらを見つめる瞳は煌姫と同じ色をしているのに、強烈に朱夏を射抜こうとしているようだった。
「第六室どの、ご機嫌麗しゅう。奥宮から出てこられたのですね」
帝の室は、普段奥宮から出てくることはない。昨日の葬儀のような儀式の際に、帝に伴われて出てくる程度だ。
「今上さまのご機嫌伺いに参りましたの。親王さまは、どちらへ?」
「私は、用事を終えました。これから夏の宮へ戻ります」
たとえ市井の出であろうとも、今は帝の室として礼を尽くさねばならない。礼儀正しく腰を折る朱夏の態度に、迦陵は鷹揚に頷いた。
「涼やかで心地よい宮と聞いておりますわ。……背も随分お伸びになって」
懐かしむような口調に気づかないふりをし、朱夏は辞去の言葉を口にした。
「急ぎますので、これにて失礼致します。父上なら、執務室においでです」
出てきたばかりの扉を指し、朱夏は今度こそ振り返って歩きだした。
背中から、迦陵の視線が追いかけてくるような気がしたが、無視した。
朱夏を見送った第六室、迦陵は小さく息を吐いて帝の執務室へと向き直る。
差し入れの菓子を入れた籠を持たせた侍女が、扉脇の護衛に声を掛けた。
「第六室さまより、今上帝さまへご機嫌伺いでございます」
開かれた扉から、迦陵の好む伽羅が香った。いつの間に、執務室でもこの香を薫くようになったのだろうか。
そんな内心を押し隠し、迦陵は深く拝礼して室内に足を踏み入れた。
「今上さま、迦陵が参りましたわ」
軽やかに声を掛けると、何かの書類に筆を走らせていた夏勢帝が手を止めて立ち上がった。大股に迦陵に歩み寄ってくる。
侍女が卓に籠を置いて出ていき、文官や護衛も下がらせて二人きりになった室内で、夏勢が迦陵の細い体を強く抱きしめた。
「……っ、今上さま。このような明るい内から……」
肩に乗せられた夏勢の頭が震えているように感じ、迦陵は紡ぎかけた言葉を飲み込んだ。
「……朱夏に会ったか」
低い呟きに、迦陵は首を傾げる。見えていないとわかりつつも、微笑みを作り頷いた。
「すぐ外で、お会いしましたわ。夏の宮へ戻られると仰せでした」
「何か……他に何か話したか」
「いいえ。ご挨拶しただけですわ」
迦陵を抱き留める腕にますます力が入る。痛みに顔が引き攣りそうになるが、奥歯を噛んで耐えた。
ようやく体を離され、夏勢の唇が迦陵の耳元に寄せられる。
「今宵、其方の元へ渡るつもりであったが……」
言いながら、夏勢は迦陵の細い腰を引いて椅子に座った。その膝に、迦陵の体を乗せて抱き込む。
「っ、う、今上さまっ。このようなところで……っ」
「人払いは済ませた。たとえ誰か来ようとも、構わぬ。誰に見られても構うまい?」
「っ!」
首筋を唇でなぞられ、迦陵は背を震わせた。このまま、ここで抱かれるのだろうか。
ほんのりと、朱夏の残り香が鼻腔を擽ったような気がして目を見開く。遠い思い出は、褪せることなく迦陵の心の奥底にしまってあるのに。朱夏の父である夏勢が、こじ開けようというのか。
己は、帝に買われた身なのだ。求めに応じて、彼の好むように振る舞わなくてはならない。
想いを振り切るように、迦陵はきつく目を閉じた――。
気持ちを落ち着けるために、朱夏は夏の宮へ戻る前に近衛の鍛錬場で体を動かすことにした。
烏を相手に打ち合いを終え、汗を拭きながら本宮の建物をじっと睨む。
もう少し、腕に筋肉をつけたいが、あまり重くなると俊敏さに欠けると烏に指摘された。背もまだ伸びている最中ではあるし、剣の腕を磨くことに今は集中して鍛えている。
帝を護る近衛の武官たちは精鋭揃いで、鍛錬相手には不自由しなかった。いずれは、近衛の隊長にも打ち勝ってみせると闘志を瞳に浮かべながら、朱夏は本宮から視線を逸らした。
迦陵が奥宮から出てくるとは思わず、動揺してしまった己が情けない。心身を一層鍛え、動じない心を手に入れたかった。




