弐
朱夏の暮らす夏の宮。
涼やかな青や水色の絹で彩られた宮の内を、烏と物乞いの子どもを引き連れて朱夏は歩く。
宴の手伝いに駆り出され、仕える者たちの影はまばらだ。
私室の扉を自身の手で開け、烏と子どもを室内へと促した。
しっかりと背筋を伸ばした烏とは対照的に、物乞いの子どもはきょろきょろと落ち着かなさげに視線を彷徨わせている。
「座ってくれ。腹が減っているだろう?何か用意させよう」
「親王さま、まだ座らせないでください」
さっさと腰を下ろした朱夏は、烏の言葉に目を見開いた。
「何故だ?」
「先に、この子どもの体を拭きます。宮に戻った際に水で絞った手巾を頼みましたから、それまでお待ちください」
烏に言われ、朱夏は改めて子どもの有様を観察した。
着ている物もぼろぼろで、土や泥であちこち汚れている。確かに、このまま座らせれば調度品を汚してしまう。
溜息を吐き朱夏は頷いた。
「わかった。そのままでは烏が侍女に叱られるということだな」
「本当であれば、宮に入る前に身綺麗にしたかったのですが」
悔しそうな表情の烏に苦笑を返し、朱夏は子どもの顔をじっと見つめた。
怯えを乗せた瞳を薄く開き、子どもは探るように朱夏を見ていた。
「まずは、名を聞かせてくれ。其方の名は?」
「……」
裏路地で出会ってからここまで、この子どもは一切声を発していなかった。やはり口が利けないのだろうか。
「名を言えぬのならば、私が好きに呼んでしまうぞ」
「……ぅ」
「うん?」
消え入りそうな声で何かを呟かれた。烏にも聞き取れなかったのか、眉間に皺を寄せて子どもを見ている。
「何と言った?」
「……琉兎」
「それが、其方の名か?」
名を知れただけだというのに、何がこれほど嬉しいのか朱夏にはわからなかった。だが、これまで一言も喋らなかった相手が名乗ってくれたというのは、警戒を少しは解いてもらえたような気分だった。
「では、琉兎と呼ぼう。私は、朱夏」
「しゅ、か……?」
「『さま』をつけろ」
すかさず飛んできた烏の叱責の声に、子ども――琉兎が身を竦ませた。
「烏、よい」
「ですが」
「いきなりこのようなところに連れて来られ、怯えているだろう。それに、琉兎は臣下ではない。四季の国に暮らす民だ。無理に謙ることはない」
きっぱりと告げられた烏が口を閉ざすのと、侍女が濡れた手巾を運んできたのは同時だった。
夏の宮に仕える年若い侍女の一人だが、室内にいる朱夏に深々と頭を下げた後で、琉兎に目を留め眦を吊り上げた。
「親王さま、その汚い子どもは何ですか!」
耳障りな声と言葉に、朱夏がきつく侍女を睨む。だが、気づいていないのか侍女がずかずかと室内を歩いてきた。
琉兎の細い肩に侍女の手が置かれた。ぎりぎりと、指が食い込む音が朱夏のところにまで聞こえてくる。
「こんな……今はおめでたい時だというのに、このような……」
「やめよ、莉羅。その子どもは、私が連れ帰ったのだぞ。大切な民に無礼を働くな」
「何を……何を仰せですか、親王さま!この夏の宮に、このような薄汚い得体の知れない者をっ」
「やめよと申した。もう下がれ」
感情を消した声で告げると、弾かれたように琉兎から手を離した侍女が、青い顔をして朱夏を見た。縋るような瞳に、朱夏が一つ溜息を漏らす。
慌てて朱夏の足元に駆け寄り膝をつく。
「お、お許しを、親王さま。わたっ、わたくしは……っ」
「もうよいから。下がれ。夕餉の刻限まで、この部屋には近づくな」
きゅっと唇を噛んで、侍女莉羅は琉兎を一睨みした後で部屋を出ていった。
ふう、と息を吐いて、朱夏が立ち上がる。
「烏、手巾をこちらへ」
差し出した手に、烏が訝しげな目を向けた。
「親王さま?」
「先ほど、莉羅から手巾を受け取ったろう?私が琉兎を拭く」
「何を仰せです!それは、吾が……っ」
抗う烏の手から強引に手巾を奪い取り、呆然と佇む琉兎に近寄る。
「っ!」
そっと頬に手巾を当てると、琉兎の細い肩が跳ねた。
「すまぬ。痛かったか?」
朱夏の言葉にぶんぶんと首を横に振った琉兎が、前髪で半分隠れた顔に警戒の色を乗せたのがわかった。探るように、朱夏と烏を交互に見る。
「湯を使わせてやりたいが、さすがに烏が許すまい。今は、とにかくこれで汚れを拭くから我慢してくれ」
ゆっくりと顔を拭いてやり、琉兎の纏うぼろきれに手を伸ばしたところで、激しく抵抗された。
「琉兎!?」
元が何色だったのかもわからないような布の襟の合わせを、必死に掴んで身を捩る琉兎の姿に朱夏は驚く。
その場で蹲った琉兎にどうしていいかわからず、朱夏が烏を仰ぎ見ると彼もその黒曜の瞳を見開いていた。
「……烏?」
「まさか、その子ども……女子なのでは?」
「はっ?」
何を言われたのかわからず、朱夏は床で震える琉兎を呆然と見やった。




