壱
その日、国中が歓喜に湧いた。
この四季の国を統べる高貴な帝の一族に、長く誕生していなかった姫君が生まれたのだ。
直系でこそないが、至高の血を引く由緒正しき姫君。帝は喜び、大仕事を成し遂げた自身の弟君とその細君へと、祝いの品々を大量に贈った。
宮廷は姫君の誕生を祝う宴を盛大に催し、民にも酒や食事が振る舞われた。
生誕から一月を数え、姫君の無事の成長を祝う宴が七日間続いてる。その喧騒を逃れ、濃紺の髪を背で一つに束ねた少年が足早に通りを歩いていた。ただ一人、漆黒の髪をした青年だけを連れて。
「……どこもかしこも、騒がしいな」
澄んだ声で忌々しそうに呟く少年に、つき従う青年は何も答えなかった。
「このような裏路地までは、さすがに宴の影響はないか」
普段から人影のあまりない、治安もそれほどよろしくない裏通り。少年が出入りすることにいい顔をする者は皆無だが、黒髪の青年だけは何も言わずに従っている。
「あれは、何だ?」
少年が指差した先には、ぼろきれを纏った何かが蹲っていた。
尋ねられた青年は少し首を傾げ、密やかな声で答えた。
「物乞い、ではないでしょうか」
その返答に少年の眉がぴくりと上がる。
「物乞い?この、国を挙げての喜びの季節に?」
言っておいて己の言葉に少年は苦笑した。その喜びの宴を、自分は抜け出してきたのだった。
「この裏通りまでは、宮廷からの振る舞い物も行き届いてはいないようです」
「それで、あの者は、恵みを待っているというわけか?」
少年の言葉には、純粋な疑問の感情だけが乗っていた。
「まだ子どものように見えます。親もなく、働くには幼く、施しを受けて暮らしているのではないかと」
「……烏。何か施せる物はあるか?」
烏と呼ばれた黒髪の青年は、静かに首を振った。
「吾が持参しているのは、親王さまの御身をお守りするための物ばかりです」
その答えに吐息を漏らし、少年が一歩足を踏み出した。
「親王さま!」
「そう大声を出すな。それと、今は名で呼べ」
「……朱夏さま」
烏の返事に満足げに頷きながら、少年――朱夏の足は蹲る子どもへと近づく。
ざりっ、と砂を踏む音に、ぼろきれを纏った子どもの顔がこちらへ向いた。
やせ細った子ども。頬のこけた顔は薄汚れ、布の隙間から覗く手足は枯れ枝のように細い。
長く伸び放題になった前髪の隙間からちらりと覗く瞳が、薄く開けられてのろのろと朱夏を見上げた。
「ここで、何をしている」
答えを期待しての問いかけではなかった。そもそも、こうして物乞いをして暮らしている者と言葉を交わすことすら初めてだ。ただ、父帝の治世に黒い染みとなりそうな存在を、そのまま見過ごすこともできなかった。
「口が利けぬのか?」
首を傾げてそう尋ねてみると、途端に子どもが震え始めた。
「……ぁ、お、お許しを……」
絞り出すようにそれだけ言って、地面に額づいた子どもを呆然と見下ろす。
鋭い視線を烏に向けた。
「どういうことだ?この拝礼は、奴隷が主に対して行う礼では?」
尋ねられた烏も、わからないというように頭を振った。
「この国に、現在奴隷はいないはずですが。この子どもが他国から来たのか、或いはこの拝礼を教え込んだ誰かがいるのか……」
烏の推測に舌打ちを漏らし、朱夏は装束が汚れるのも気にせずに子どもの前に膝をついた。
細い肩にそっと手を置く。びくり、と震えた子どもがますます額を地面に擦りつける。
「やめよ。其方は私の奴隷ではない。そんなに、額を地につけるな」
朱夏の言葉にも、子どもは怯えた様子のまま顔を上げなかった。
「……烏、何とかせよ」
子どもの肩に手を乗せたまま、背後を振り返る。驚愕に目を瞠っていた烏が、はっとしたように駆け寄ってきた。
「ひとまず、お手を離されてはいかがですか。御身が触れていい相手ではありません」
本来なら、朱夏が物乞いの子どもに手を触れる前に、己が止めるべきであったのだ。
護衛も兼ねる従者としてまったく失格である。
子どもの肩から引き剥がした朱夏の手のひらを、懐から取り出した手巾で丁寧に拭いた。
「……何をしている?」
「お手を拭いております」
「それは見ればわかる。何故、拭いている?」
「御身が穢れました」
烏の言葉に青灰色の瞳を見開き、朱夏は音を立てそうな勢いで烏の手を振り払った。
「しんの……朱夏さま!?」
「民に触れただけだ!穢れなど、あるはずなかろう!」
たとえ物乞いとして生きていようとも、この国に暮らす大切な民だ。貶めるような物言いに、我慢ならなかった。
いずれ、己が治めることになるだろう国の、血肉となる民の一人。ここで救えないようでは、国など治められない。
ぐっと拳を握りしめ、朱夏は厳かに告げた。
「この子どもを、我が宮に連れ帰る」
「朱夏さま!」
真っ青になった烏に構わず、朱夏は再び物乞いの子どもに視線を合わせた。頬に触れ、そっと上を向かせる。
「其方、私のもとへ来るか?」
土で汚れて判別のつかない顔つきは、朱夏の目には随分幼く映った。




