参拾漆
健やかな寝息を立てる煌姫に安堵し、朱夏は寝台の横に運ばせた長椅子に寝そべった。行儀の悪い態度だが、ここには咎める者はいない。
烏が静かに茶を淹れる音が響く。しばらくは、こうして緩やかな時が流れるといい。
考えなければならないことは多くあるが、すべては明日になってからだ。
差し出された茶器に、身を起こして手を伸ばす。一口含むと、思いの外疲れていたことを朱夏は自覚した。一息に飲み干す。
「これは、薬草茶か?」
「はい。櫻花楼から帝に献上された茶葉を、こちらにも分けていただきました」
「櫻花楼、か」
夏の暑さに疲労した肉体に、染み込んでいくような爽やかな香りだった。
「明日は、父上の元へ行く」
「呼ばれておいでですか?」
烏は、葬儀自体には参列していなかった。霊廟に入れるのも、帝一族だけであったから常に外で控えていたはずだ。父帝との会話も、聞いていなかっただろう。
「母上が、叔父上の葬儀に参列されなかったことについて、話されるそうだ」
「左様でございますか」
幼い頃から、ずっと朱夏の側に仕えるこの男は、迦陵についてどう思っているのだろうか。そんな疑問が、朱夏の内に湧いた。
見上げた漆黒の瞳は、常と変わらず冷静に見える。
「親王さま?」
「其方は、父上の新たな室について、どう思っている?」
そんな言葉が口をついて出た。はっとして口を噤む。だが、烏の耳にはしっかり届いてしまったようだ。
一瞬目を丸くして、烏は視線を逸らした。
「それは……」
「ああ、いや。愚かなことを聞いた。忘れてよい」
「親王さまは……まだ、あの方を想っておいでですか」
尋ねられた朱夏の方が驚きに目を見開いた。あまり、朱夏の私的な部分には立ち入らない烏が、そんなことを聞くのが意外でもあった。
「どうだろうな」
「もし、まだ想っておいでなら。酷なようですが、お忘れになるべきかと」
「随分はっきりと物申すではないか」
煌姫が起きてしまわないように、自然声を潜めてのやり取りとなる。
「吾は、親王さまには煌姫さまだけを、見つめていただきたいと思っております」
「……」
「無論、欲を発散なさるのも結構です。必要なことですから」
「春香のことを言っているのか」
湯殿を出てからのやり取りを聞いていたのだろう。これまで、春香との関係について言及してきたことはなかったが。
「侍女どのは、帝の命で親王さまに侍っておいでなのでしょう。ですから、あまりお心を寄せられすぎるのは、よろしくないと思います」
「体だけを、貪れと言うのか?」
「お気持ちを寄せれば、いずれ親王さまが傷つかれます」
烏は心底から、主君を案じているのだろう。朱夏にもそれはわかっている。だが、閨事について、この側仕えにあれこれ言われるのは面白くなかった。
「私が誰を抱こうが、其方には関係あるまい?」
「……」
「煌を傷つけるつもりはない。春香との関係は、そうだな……煌が成人を迎え、私と褥をともにできるまでの間のことだ」
市井に忍んで行くわけにはいかないのだから。
胸の内に浮かんだそんな思いは口には出さなかった。今年成人を迎えた朱夏は、これから父帝の執務の補佐を始めることになっている。忍び遊びなどしている余裕も、そんな気持ちさえ湧かなかった。
「今は目を瞑ってくれないか」
まだ何か言いたげな烏との会話は、そこで打ち切られた。
寝返りを打った煌姫の瞳が、うっすらと開かれたから。
「……あに、さま?」
「目が覚めたか、従妹どの。気分は悪くないか?」
優しく頭を撫でてやり、額に貼りついた前髪を整えてやる。
「わたくし……ねむってしまったの?」
「疲れていたのだろう。今宵は、私もこの長椅子で休むから。もう少し寝るといい」
「あにさま……」
まだ寝ぼけているような表情で、小さな手が朱夏に伸ばされる。その手をそっと取ってやり、両手で包み込んだ。
「私はここにいる。其方は何も心配することなく、健やかに過ごしてほしい」
「……おやすみ、なさい」
「お休み、従妹どの」
朱夏の体温に安堵したように、煌姫の呼吸が深くなっていく。
そうだ。この小さな従妹を、愛していかなければ。国に認められた、大切な伴侶なのだ。
笑顔を曇らせたくはなかった。己しか頼る者のいなくなった従妹を、守り愛すると朱夏は深く誓った。




