参拾弐
烏がそっと朱夏の肩に手を置いた。
はっとして、朱夏は顔を上げる。どれほど、考え込んでいたのだろうか。
「親王さま、そろそろお戻りになりませんと」
「……ああ」
重たく呟き、朱夏はのろのろと立ち上がった。顔を覆っていた薄布はめくれ、酷い顔色を晒していた。
「其方は、知っていたのか……」
「何のことでしょう」
歩き出せずに、朱夏は視線だけを烏に向けた。
「父上が、忍んで行っていた、相手を」
朱夏の装束を軽く整えながら、烏は「ああ」と頷く。
「今上帝さまが、櫻花楼に忍んで行かれていたのは、隠密たちは皆知っておりました」
「何故っ!……では、何故、言わなかった」
「お聞きになりたかったですか」
静かな烏の言葉に、再び朱夏は考え込む。父帝が、幼い彼女の元に通っていた。それも、妓女として買うために。身請けして側室として迎えるほどに入れ込んでいた。
知りたくなかった。初めて、父のことを穢らわしいとさえ思った。だが、父一人に囲われることで、あの少女は今後客を取る必要はなくなったということだ。それは、彼女にとって救いなのだろうか。
「……わからない」
絞り出すような声に、烏は目を伏せた。報告すれば主君が傷つくことはわかっていた。だが、こうして後から知らされても、どちらにしろ朱夏は心に傷を負うのだ。どうすればいいのかわからないのは、烏も同じだった。
「とにかく、夏の宮にお戻りになりましょう」
「……うん」
迷い子のような揺れる瞳で、朱夏は頷いた。
焚かれていた燭台の火が絞られ、薄暗い回廊を進む朱夏に言葉はなかった。烏も、何も言わずについて来る。
夏の宮までの道が、これほど遠く感じたことはなかった。身の内を、黒い炎が焼け焦がすようだった。朱夏の腹に溜まっていく、澱のような暗い気持ち。
無性に煌姫に会いたくなった。あの陽だまりのような明るい笑顔を見て、安心したい。だが、今頃は夢の中だろう。
それに、こんなに汚い気持ちのままで従妹に会うわけにはいかなかった。光の中を生きる彼女を、穢してしまう。散々に乱れる胸を抱えて、朱夏は夏の宮へと戻った。
こんな深夜に新たに湯を沸かせるのも躊躇われて、湯殿で冷たい水を浴びて汗を流す。
大判の手巾で乱暴に体を拭いて、朱夏は夜着に身を包む。少しだけ頭が冷えた。
「何か、お飲み物をお持ち致しますか」
烏の問いに首を振り、もう休むと下がらせた。
一人になりたかった。だが、一人で寝台に横になるのが怖い。見なくていい夢を見そうで、とても眠れないような気がして、恐ろしかった。
帝の嫡子が何と情けない、と自嘲するような笑みが朱夏の口元に浮かんだ。
まだ少し濡れた髪のまま、私室の扉を開けた。
ふわり、と沈香が香った。寝台で休む時に薫く、気に入りの香。侍女たちが、朱夏のために薫きしめたのだろうか。
頭の奥がぼんやりとして、何も考えられなかった。緩慢に寝台に近づくと、枕元の床に春香が控えていた。
「……春香」
「親王さま、夜のご機嫌伺いに……どうなさいました?」
頭を上げた春香の眉が寄せられる。沈香は、彼女の薄衣から香っていたらしい。
立ち上がった春香がそっと朱夏に近づく。躊躇いがちに、朱夏の頬に細い手が伸ばされた。
「お顔の色が、悪うございますね」
労るように頬を撫でる春香の手首を、思わず朱夏は掴んでいた。
「親王さま?」
「何故、ここにいる?」
掠れた声に、春香が微笑む。
「成人のお祝いですわ」
「祝い……?」
「十五のお祝いを申し上げたくて、お戻りをお待ちしておりましたの」
掴まえたままの春香の手に、縋るように朱夏は額を押しつけた。
「親王さま、どうなさいましたの?」
「……」
何も答えない朱夏の頭を、春香が反対の手でゆっくりと撫でた。包み込まれるような安堵感に、朱夏は息を吐く。
「下がれ」
「えっ?」
「もう休む。祝いの言葉は受け取った。下がるがよい」
このまま側にいては、春香に酷い行いをしてしまいそうな己が怖かった。
不思議そうに首を傾げた春香が、くすっと笑いを漏らす。
「そんなにお辛そうな貴方さまを、一人置いて出ていくことなどできませんわ」
「だめだ。今の私は平静ではない」
春香の手首を掴む朱夏の手に、そっと細い手が重ねられた。そのまま、その手を掴み返されて春香の頬へと誘われる。
「苦しんでおいでのお心のお慰めに、わたくしではなりませんか?」
「其方を……傷つける……」
「わたくしは、親王さまをお慕いしておりますわ」
崩壊しそうな心の悲鳴を飲み込むような春香の微笑みに、朱夏は理性を手放した――。




