参拾壱
人好きのする笑みを浮かべた凛慈が、先導してきた輿に帰る指示を出し朱夏に向き直る。
首を傾げると、さらりと白髪が揺れた。ああ、笑うと笑窪が浮かぶのだなと、場違いな感想が浮かぶ。
「まるで隠密のような出で立ちですが、こちらへは忍んでいらしたので?」
からかうような口調に朱夏は我に返った。己の姿を見下ろし、苦笑する。
緊張で詰めていた息を吐き、凛慈の瞳を真っ直ぐに見返した。
「父上の新たな室を見たくてな」
思ったよりも、声は震えなかった。だが、胸の内は嵐のように荒れ狂っている。
「其方が手を取っていたのが、父上のお相手か?」
「ええ。我が楼でも一番の売れっ妓でしてね」
「売れっ妓……」
薄茶色の髪に薄桃色の瞳。そして、櫻花楼の楼主が送り届けた女性。朱夏の脳裏に浮かぶ、あの夏の光景――。
深く息を吸い込み、唇を舐めてから朱夏は声を絞り出した。
「あれは……私の知る人だろうか」
背後で烏が息を呑む音が聞こえたが、構っている余裕が朱夏にはなかった。ただ、凛慈の返事をじっと待つ。
首を傾げた凛慈は、面白そうに朱夏を見下ろしている。
「お尋ねの意味を掴みかねますが。もしや、親王さまが大切な口づけの君、なのですか?」
「口づけの君……?」
「ああ、人が来ますね。こちらへ。私が宮中を訪れた際に使用する客間があるのです」
流れるような動作で腕を掴んだ凛慈に、朱夏は驚きを隠せなかった。烏が、まったく反応できなかったことに驚愕を見せる。
「其方……」
「あの客間は、櫻花楼の者だけが使うことを許されていますのでね。茶でも淹れてもらいましょう」
さっさと歩き出す凛慈の後ろを、足をもつれさせそうになりながら朱夏が続く。焦ったように烏もついて来た。
「貴様、親王さまから手を離せ」
低い声に忍び笑いを漏らし、凛慈が朱夏から手を離す。
「何も、取って食いやしませんよ。ただ、人に聞かれたくない話をされたいのかと、これでも配慮したつもりなんですがね」
「貴様……」
「烏、よい。私は、凛慈の話を聞きたい」
「親王さま……」
困ったように眉を下げた烏から視線を逸らし、朱夏は凛慈の後をついて歩いた。
本宮の一角。あまり人通りのない北向きの角に、凛慈が使うという広くない客間があった。
中に通された朱夏は、勧められるままに腰を下ろし額に手を当てた。頭の中が纏まらない。聞きたいことが溢れて止まらなかった。
「今、茶を頼みました。櫻花楼で取り扱う薬草茶ですよ。心が落ち着かれます」
「……」
「護衛どのもいかがですか?」
朱夏の後ろを守るように立つ烏にも声を掛けた凛慈が、鷹揚に構えて朱夏の向かいに座る。
「吾は結構だ。おかしな動きをしたなら、すぐさま斬る」
「おお、怖い」
くすくすと笑う凛慈に、朱夏は居住まいを正して尋ねた。
「それで、凛慈。先ほどの言葉は、どういう意味だ?」
「先ほどの……ああ、口づけの君ですか」
凛慈の言葉に朱夏は頷く。
「そうですねぇ。遊郭の妓女に伝わる、お呪いのようなものですよ」
「お呪い?」
朱夏が首を傾げるのと同時に、部屋に薬草茶が運ばれてきた。
音を立てずに卓に置かれた茶器に、後ろから烏が手を伸ばす。香りを確かめ、舌先で茶を転がして毒がないかを確認した烏は、小さく頷いて茶器を戻した。
「遊女というものは、過酷な労働です」
静かに告げられた内容に、朱夏の動きが止まった。凛慈をじっと見つめる。
「親の作った借金の形に売られた者。寒村で明日を生きる糧もなく、口減らしのために売られた者。戦や疫病で親を亡くし、子だけでは生きていけぬ者」
口を挟めず、朱夏は黙って聞いていた。
「春を売るというのは、そういった拠り所のない女たちの生きる術です。ですが、好き好んで体を差し出すわけではない」
身動ぐ朱夏に、凛慈は言葉を飾らずに話を続ける。親王相手といえども隠さず語るその姿勢に、朱夏は好感を持った。
「たとえその身を好きにさせても、唇は許さない。己が口づけするのは、心を寄せた大切な相手だけ。いつの頃からか、そういった風習のようなものが、遊郭には出来上がっていましてね」
「心を寄せた相手」
「今宵私が献上した彼女にも、幼い頃に出会った大切な相手がいたようでしてね。どれだけ客に買われても、誰にも口づけは許さなかった。まあ、身請けなさった今上帝さまにはどうするかわかりませんが」
肩を竦めた凛慈が口を閉じると、耳に痛いほどの静寂が流れる。
『ここはわたしだけのもの』
細い指で己の唇を指した、小さな姿。先代の凛慈に連れ戻された、幼い少女。
朱夏は頭を抱え込んだ。ずきずきと、頭の奥が痛む。目の前が真っ赤に染まったようだった。
何故、父が彼女を買ったというのか。いや、本当に彼女なのか。父の呟きも思い出した。
「柊どのの代わりに……」というあの言葉。まさか本当に、そんな低俗な真似をあの父が行ったというのか。
「すでに彼女は奥宮に入りました。親王さまのお手の届く相手ではなくなった。今お聞かせした話は、お忘れになった方が御身のためかと」
気遣うような言葉を残して、凛慈が立ち上がった。
「しばらく、この客間はそのままにしておきますので。お気の済むまで、考えて行かれるといいでしょう。御前失礼致します」
深く頭を下げて出て行く凛慈に、朱夏は何も答えられなかった。




