弐拾捌
ぱたぱたと軽い足音を響かせて、煌姫が朱夏に向かって駆け寄ってきた。
難なく小さな体を受け止め、頭を撫でてやる。桜の離宮から、すでに夏の宮へ戻ってきていたらしい。
「従妹どの、戻っていたのか」
「おかえりなさいませ、従兄さま」
「ああ、ただいま」
ふふっと笑って、煌姫が朱夏から身を離してその場で回る。
「いかが?はるかに着つけてもらいました」
ふわりと煌姫の体に纏わりつく裳は、朱夏の瞳のような落ち着いた青色だった。
「よく似合っているね」
「ここ!このはしのところは、わたくしがししゅうしたの」
小さな指で懸命に示しているのは、裳の裾部分であった。濃い藍色で、花のような模様が刺繍されている。
従妹の前に膝をつき、朱夏はそっと布に触れた。
「ああ、随分上達したようだ。これは……桔梗、かな?」
朱夏の言葉に、煌姫は頬を膨らませた。
「違うわ、従兄さま。ふじのお花よ」
「藤……」
「従兄さまが、わたくしのせいたんにおくってくださる、お花でしょう?」
藤の花は、もっと紫がかった色味なのではと朱夏は思ったが、ひとまず従妹に謝る。
「私は、花には疎くてね。すまない、従妹どの」
「男のかたって、しかたないのねぇ」
うんうんと頷き、煌姫は悪戯そうに笑った。
「許してさしあげます。あ、やっぱりだめよ。ばつとして、今夜のかんみは、わたくしにおゆずりくださいな」
しかつめらしい表情を作る従妹に、吹き出すのを堪えた朱夏は立ち上がった。そっと、従妹の手を取る。
「高貴な姫君が、そのように食い意地が張っているなど、笑われるぞ」
途端に頬を染めて、慌てたように視線を彷徨わせる煌姫に、朱夏は囁いた。
「だが、私と其方の秘密にするのなら、叱られることもあるまい。だから、甘味を其方に捧げるのは、二人だけの秘密だ」
「従兄さまっ」
ぱあっと顔を輝かせた煌姫の後ろから、秋穂がふくよかな体を揺らして駆けてきた。
「ひっ、姫さまっ。いきなり走り出されては危のうございます」
「従妹どの?秋穂を撒いてきたな?」
朱夏に視線を向けられて、煌姫は悪戯がばれた幼子のように目を逸らした。
「だっ、だって。従兄さまに早く、おあいしたかったのだもの」
「姫さま、今はお勉強のお時間でしたのに。親王さまはまだお忙しいのですから、さあ、お部屋に戻りましょうね」
ようやく追いついた秋穂に手を差し出され、煌姫が渋々といった様子で朱夏から離れた。
ちらり、と朱夏を振り返る。
「従妹どの。手習いが終わったなら、私と茶会をしないか?」
「おちゃかい?」
「そう。いつもの茶の時間ではなく、きちんと装って庭に卓を運ばせて。花を眺めながら私と茶を飲まないか?」
朱夏の提案に、煌姫は瞳を輝かせて両手を叩いた。
「すてき!わたくし、手習いをがんばります」
「ああ。しっかり励んでおいで」
大きく手を振って、煌姫は上機嫌で秋穂に手を引かれて歩いていった。
私室へ向かう朱夏の後ろを、烏が静かについて来る。
「……烏、言いたいことがあるのならば言え」
「いえ……」
開かれた扉から室内に入り、朱夏は纏っていた衣を脱いで汗を拭いた。
風通しのいい部屋着に着替え、ようやく腰を下ろして息を吐く。
烏が淹れてくれた茶で喉を潤し、忠実な臣下に目を向けた。
「本宮で、櫻花楼の店主と会ってから、何か言いたげな瞳をしている。何だ?」
「……」
「これから私は、煌を正室とするための支度にかからねばならない。父上からのご命令だからな。迅速に用意せねば」
朱夏の言葉に、烏ははっとしたように目を瞠った。
「姫君を、ご正室に……?」
「無論、閨事などまだ先のことだが。どうやら、叔父上の容態が思わしくないらしい。安心させたいそうだ」
「春日親王さまが……」
何事か考え込んでいる烏の言葉を、朱夏はじっと待った。
卓の上に放ったままだった国外の王族について書かれた教本をぱらりと開く。急な呼び出しに応じて本宮へ行ったから、今日の分の勉強は中途半端なところで終わっている。
しばらく教本を眺めていると、沈黙していた烏がようやく声を発した。
「親王さまは、よろしいのですか」
喘ぐような声に朱夏は顔を上げた。何を聞かれたのか、理解できなかった。
眉を寄せて尋ね返す。
「何のことだ?」
「今上帝さまの仰せのままに、姫君をご正室として迎えられるのですか」
「何を今更。煌が生まれた時から、決まっていたことだ。叔父上のこともあって、想定より時期が早まっただけのこと」
淡々と返す朱夏に、烏が苦しげな表情を浮かべる。
「……烏?」
「吾は、あれからずっと、監視を続けておりました」
「監視?」
教本を卓の上に置き、烏に向き直る。
「何の話をしている?」
「ですから、今上帝さまがどなたをお迎えになるのか、何となく察しはついております」
烏の言葉に目を見開き、朱夏は思わず立ち上がる。
「父上のお相手を、知っているのか?いや、監視とは一体……」
「これまで、親王さまのお耳に入れるのを躊躇っていたのですが……」
己に忠実なこの臣下が、敢えて報告しなかった何かがあるということを、この時朱夏は初めて知ったのだった。




