弐拾漆
気づけば父帝の執務室を辞していた。
慌ただしい本宮の廊下を、烏を従えて歩いていることに気づき、朱夏は目を見開いた。
「あ……」
「親王さま?」
足が止まった朱夏に、烏が訝しげな声を掛ける。
「私は……いつの間にここまで」
「どうなされました?」
「いや」
緩く頭を振り、朱夏は視線を前方に戻した。廊下のあちらこちらで、文官たちが忙しそうに動き回っている。
「父上が、新たな室を迎えられるそうだ」
朱夏の言葉に目を瞠り、烏は主君の視線の先を追った。
「文官たちの慌ただしさは、そのせいですか」
「ああ」
「夏の宮に、知らせはありませんでしたね」
足を進めながら、朱夏は頷いた。
「どうやら、市井から迎え入れるらしい」
「今上帝の宮に入られる方を、市井から、ですか」
「それも、随分と年若いそうだ」
すれ違う文官たちが、朱夏の姿に足を止め頭を下げて通り過ぎていく。
「急なお話だったのでしょうか」
「父上が、突然に思い立たれての輿入れだそうだ」
「何か、理由がおありなのでしょうか」
烏の疑問に、朱夏は答えを持たなかった。己こそが、それを父に問い質したい。
本宮の廊下を抜け、夏の宮と繋がる回廊の扉を出ようとしたところで、朱夏は声を掛けられた。
「これはこれは、朱夏親王さまではございませぬか?」
聞き覚えのない、まだ若い男の声。
振り返った朱夏の目に、鮮やかな朱色の袍を纏った青年の姿が映った。警戒するように、烏が一歩前に出る。
「其方は?」
見知らぬ顔だった。浅黒い肌に引き締まった体躯をしている。長く伸ばした白髪は背で一つに束ね、金の瞳で朱夏を探るように見ていた。
一目でこの国の者ではないとわかる、肌の色と出で立ちだった。
誰何の声を掛けられた青年は、慇懃に頭を下げてにやりと笑みを浮かべる。
「都で櫻花楼の楼主を務めます、凛慈と申します」
「……」
朱夏の脳裏に、ほくほく顔の老人の顔が浮かんだ。あの夏、あの少女を連れ戻しに夏の宮へやって来た、櫻花楼の楼主。目の前の青年とは、似ても似つかない。
「帝一族相手に偽りを申すなど、大罪だぞ」
「ああ。親王さまは、先代にお会いになられたことがあるのですね」
「先代?」
飄々とした態度を崩さない青年に、朱夏の眉根が寄った。
「櫻花楼を継いだ者は、その名も継ぐのでございますよ。先月、私めが店を継ぎ、凛慈の名も受け継ぎましてございます」
「その、櫻花楼の店主が、何故ここにいる?」
この国の流通を一手に取り仕切る、四季の国で一番の大店、櫻花楼。たとえ裏で違法な遊郭を経営していようとも、表立ってはこの国の経済の要だ。
五年の間に学び続けた朱夏にも、わかってはいた。いずれは、国を継いだ朱夏が関わっていかなければならない大商人だ。それでも、あまり関わり合いたくないと思ってしまうのは、朱夏の私情だろうか。
内心の溜息を堪えている朱夏に、凛慈がにこにこと人当たりのよさそうな笑みを浮かべて答える。
「今宵、我が店の花をお運び致しますので」
「花?」
夏を盛りに咲く花は、何があっただろうか。
首を傾げた朱夏に、凛慈がさらに笑みを深くした。
「世を遍く照らす夏勢帝に、望まれて入内とはまことに、誉れ高いことです」
「……」
「やはり女は、殿方に望まれてこそ幸福というものですから」
くすくすと笑った後で、凛慈が深く拝礼した。
「おみ足を止めましたこと、お詫び申し上げます。私どもは、一度宮を辞しますが、夜にまた参ります。再びお目にかかれるかはわかりませぬが、朱夏親王さまがお健やかな時を過ごされますよう、お祈り致します」
朱夏の返事も待たずに、凛慈はこちらに背を向けて本宮を出ていった。
残された朱夏が深く息を吐くのと、烏が手を掛けていた刀の柄からその手を離すのは同時だった。
「一体、何だったのだろうな……」
呟きながら、朱夏は回廊の扉をくぐった。櫻花楼の店主のことも気にかかるが、父帝からの話も落ち着いて考えなくてはならない。煌姫を、正式な伴侶として遇さねばならなかった。
夏の宮に戻ったなら、秋穂や春香とも相談しながら、よき日を選ばねば。
今後の予定を考えながら歩く朱夏の背に、烏が気遣わしげな視線を送っていることには気づかなかった。




