弐拾陸
執務室の扉が叩かれ、夏勢帝に仕える文官が入ってきた。
「今上さま、そろそろ刻限でございます」
膝の上で拳を握りしめる朱夏に目を向け、文官が恭しく頭を下げる。
「朱夏親王さまに、ご挨拶申し上げます」
「……ああ」
「今宵は、今上さまにとって慶事の夜。親王さまにおかれましても、お慶び申し上げます」
言葉の意味を掴みかね、朱夏は顔を上げた。慶事――?
「秋務、余計なことを」
苛立たしげな声を漏らした父帝に、朱夏の視線が吸い寄せられる。先ほどまで、弟を思って苦悩していたような父が、渋面で秋務と呼んだ文官を睨んでいた。
「父上、慶事とは?」
「其方には関わりなきこと」
「何を仰せです、今上さま。今宵は、新たに室をお迎えになるおめでたき日ではございませんか」
「新たな、室……」
呆然と繰り返す朱夏から、夏勢帝は決まり悪そうに視線を逸らした。
「突然に思いつかれ、我らも多忙を極めておりますが。何とか、お迎えのお支度は整いそうでございます」
「何故、私の元へ知らせがなかった?」
父が新たに側室を迎えるというのなら、嫡子である己に一報あって然るべきだ。本宮に入った時に感じた文官たちの慌ただしさは、これが原因か。
夏勢と秋務を交互に見やり、朱夏はさらに口を開いた。
「それで、どこのどなたをお迎えになられます?」
「……」
答えない父を不審に思い、朱夏は秋務に目を向けた。
「秋務。誰を室として迎えるのだ?」
「親王さまはご存知ないのではないでしょうか。市井から、お迎えに……」
「秋務」
底冷えしそうな声が夏勢から響き、秋務は口を噤んだ。
「支度が整った報告は受けた。もう下がるがよい」
「は。それでは、御前失礼致します」
「待……」
朱夏の引き止める声から逃げるように、文官は執務室を出ていった。
重苦しい静寂を破ったのは、夏勢であった。
「其方も知っての通り、朕はすでに其方の母とは褥をともにしておらぬ」
朱夏は無言で頷く。嫡男である己を産んでから、政略で婚姻した父と母は離れて暮らしている。
「先年の飢饉で苦しんだ国を立て直すために、朕は多忙であった。そろそろ、憩いの時を設けてもよかろう?」
「それは構わないと思いますが……」
「執務に差し障るような無様はせぬ。案ずることはない」
心配しているのは、そういうことではなかった。先ほど秋務が言いかけた、市井から側室を迎えるという言葉。春香のように、没落した貴族などであろうか。それでも、帝の室となるには、十分な身分とは言えなかった。
「今更、由緒正しい血筋の姫など必要ない。朕には其方という嫡子がおるし、第二室が生んだ其方の弟もおる。血を繋いでゆくための女は、これ以上要らぬ」
「……」
「其方とは、顔を合わせることもなかろう。それ故、知らせなかった」
何かが引っ掛かる。父は、何かを隠そうとしているように朱夏には感じられた。
「父上が、それほどお心を寄せる御方ならば、私がお会いする機会もあることでしょう」
国が主催する式典には、変わらず朱夏の母である正室美紘を伴ってはいるが、私的な茶会などはその時々で同伴者を変えていた。
「新たに本宮にお迎えするのならば、嫡子としてご挨拶したいと存じます」
「……」
苦い顔をする父に、朱夏は言葉を続けた。
「父上とて、まだお若い。その新たな側室どのに御子ができたなら、私には弟か妹です。いずれは義母上とお呼びすることになるかもしれぬ方を、放っておくことなど」
言い募る朱夏に、夏勢は複雑そうな表情を向ける。
「……父上?」
「あれを、其方が義母と呼べるであろうかな」
「えっ?」
額を手で押さえ、夏勢は小さく笑った。
「それほど会いたいのなら、会わせてやってもよいが。しかし、あれは其方とそれほど年が変わらぬ。義母上と呼ぶのは難しいのではないか」
「それほど、お若い方を……」
艶福家と名高かったのは祖父帝であったと聞いていたのだが。やはりその血を引いて、父も女を侍らせることがお好きなのだろうか。
政では比類なき才を見せる帝だと習ったが、私的な部分はすべてを見せてもらえるわけではない。尊敬すべき父のことが、朱夏にはよくわからなくなった。




