弐拾伍
夏の宮では、時が緩やかに流れる。
宮の主である朱夏は、国を統べるための帝王学を修め、護身のための鍛錬を積み、合間には従妹姫と穏やかな時を過ごしている。
じきに、煌姫が夏の宮に暮らすようになって一年が経とうとしていた。
叔父春日が病に倒れ、二月が過ぎている。見舞いに日参する煌につき添い、桜の離宮を訪う朱夏だったが、今日は父帝に呼ばれていた。
烏だけを伴い本宮へ足を踏み入れた朱夏は、宮中の空気が常とは違っているように感じられて首を傾げた。ちらり、と後ろを振り返る。
「烏、何か感じるか」
「常とは何かが違う、としか」
「文官たちの動きが慌ただしいような……」
疑問に思いながらも、父の執務室を真っ直ぐに目指した。
帝とその後継者だけが使うことを許されている、紫紺の薄布が掛けられた扉の前で足を止める。朱夏が父の跡を継ぐ際には、同じ紫紺の装束を身に纏うことになるだろう。
扉の両端に立つ護衛に、烏が朱夏の訪れを告げた。
「朱夏親王さま、お越しにございます」
「はっ」
短く答え、護衛の武官が執務室の扉を開いた。ふわり、と清涼な空気が薫ってくる。父帝が好んで薫く香の香りだった。
「父上、失礼致します。お呼びと伺い参じました」
執務机に向かって筆を走らせていた夏勢が、ちらりと息子に視線を投げる。
「しばし待て。この決裁まで済ませる」
部屋の中央に置かれた椅子に浅く腰掛け、朱夏は父の仕事が落ち着くのを静かに待った。
ふ、と息を漏らす音が聞こえ、窓の外を眺めていた朱夏は父に顔を向けた。夏勢が執務机から立ち上がるところだった。鍛え抜かれた大柄な体は、息子の朱夏の目から見ても凛々しく美麗である。いずれ、己もあのように大きな男になりたいと、朱夏は思っていた。
「待たせたな」
朱夏の向かいに腰を下ろしながら、夏勢は控えていた小姓に茶の支度をさせた。
「お呼び出しの、ご用向きは」
「まあ待て。まずは喉を潤わせよ」
小姓が運んできた茶を一口含み、夏勢が茶器を置いてじっと朱夏を見つめてきた。父に倣い茶を飲んでいた朱夏は、首を傾げる。
「煌とは、上手くやっておるか」
夏勢の問いに、朱夏も茶器を卓に戻して居住まいを正した。
「はい。健やかに、夏の宮で過ごしてもらっています」
「そうか」
「あの、父上。本日は何用で……」
「春日の容態が、思わしくない」
ひゅっと息を吸い込む音が、朱夏の喉から漏れた。
「一年よく保った。だが、さすがに天に還る時期が近づいておる」
「それ、は……」
「そこで、婚姻を早めることとした」
「はっ?」
何を言われたのかわからず、呆けたように朱夏は口を開いた。
「ちち、うえ……?」
「春日を安堵の中で、逝かせてやりたい。煌との婚儀の支度を進めよ」
「婚儀……ですが、煌はまだ、五つになったばかりで」
喘ぐようにそう口にする朱夏に、夏勢は呆れたような視線を向けた。
「帝一族の婚姻ぞ?年齢なぞ気にすることはない」
一息に茶を呷った夏勢の茶器に、小姓が静かに茶を注ぐ音だけが響いた。
「無論、褥をともにするのは、まだ先のことであろうが」
気持ちを落ち着けようと茶器を口に運んでいた朱夏は、もう少しで吹き出すところであった。恨めしそうに父を見やる。
「今が一番、煌の存在が宙に浮いておる。夏の宮に住まう、ただの帝一族の姫という立場だけでは弱い。其方の室として、正式に遇してやらねば」
「それで、叔父上が、安心なさると?」
「笑って柊どのの元へ逝けるだろう」
夏勢の表情が泣きそうに見えるのは、弟を思ってのことだろうか。それとも、何か別の感情が浮かんでいるのか――。
「よいな。これは決定したことだ」
「……」
「煌姫と婚儀を挙げ、正室として迎えよ」
ぐっ、と奥歯を噛み、朱夏は真っ直ぐに父を見据えた。
「……承りました」
「形式的な初夜は迎えても構わん。どうせ、同衾したとて煌はすぐに眠ってしまうだけだろう。儀式としての初夜を、きちんと済ませよ」
父の言葉に、朱夏は頭を抱えそうになった。まだ五つの従妹に、そんなことを言えるものか。
「それと、其方はまだ、春香に手をつけていないようだが」
「父上っ?」
「市井に下りて、妙な遊びを覚える前に、春香に手ほどきしてもらえ」
ご自分こそ、市井に忍んでいると噂になっておられましょう――。
腹の底に、朱夏は言葉を飲み込んだ。胃が鉛のように重たかった。




