弐拾肆
はしゃぎ疲れたのか、あるいは移動の疲れか、夕餉を終えて湯浴みを済ませる頃には煌姫の瞼は重たくなっていた。
用意した私室の寝台に、朱夏が抱き上げて運ぶ。襟元をきゅっと握る指が、己を頼ってくれているようで朱夏の顔に笑みが浮かんだ。
そっと寝台に小さな体を下ろし、離れていこうとする朱夏の袖を煌姫が縋るように掴んだ。
「従妹どの?そろそろ休まねば」
「……まだ、ごいっしょに……」
「もう眠たいだろう?明日からも一緒に過ごすのだ。今夜はもう、休みなさい」
「あに、さま……」
いやいやと頭を振り、閉じそうになる瞳を必死に開けて煌姫が朱夏を見上げた。
「従妹どの?」
「わたくし、と……ずっと、おそばに……」
そっと頭を撫で、上掛けを肩まで上げてやる。
「心配することは何もない。私は、其方のものだ」
「……あにさま」
「さあ、ゆっくりお休み」
小さな体の腹のあたりをぽん、ぽん、と叩いてやると、次第に煌姫の呼吸が深くなってきた。うとうとと目を閉じたり開いたりしていたが、やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
ほっと息を吐いて、朱夏は立ち上がった。枕元の燭台の火を小さくしぼり、天蓋の薄布を引く。
「お休み、煌」
小さく声を掛けて、朱夏は従妹の私室を出た。扉近くに控える護衛に後を任せ、湯殿へと足を踏み出す。
手早く汗を流し着替えを済ませ、朱夏は私室へと戻った。
扉の側に控えていた烏が、物言いたげな視線を寄越してきたのが気にかかったが、疲労もあり無言で通り抜けた。
「……何をしている」
寝台の側の床に、夜着を纏った春香が跪いていた。
「伽は不要と、言ったはずだが」
「はい。わかっております」
「では、何故?」
これ以上近寄らないように、朱夏は寝台から離れた椅子に腰掛けた。すぐにでも眠ってしまいたかったが、春香を追い出すのが先だった。
「父上か叔父上に、何か言われたか?」
「……いえ」
「何故、ここにいる?」
唇を噛んだ春香の体は震えているようだった。だが、朱夏が手を差し伸べるわけにはいかない。煌姫を迎えた当日に、他の女に手を出すつもりなどなかった。
「わたくしが……親王さまをお慕いしているだけですわ」
「そんな泣きそうな声で告げられても、嬉しくはない」
顔を上げた春香に縋るような瞳を向けられ、朱夏の心が揺れる。幼い朱夏を諭し導いた、年上の侍女。
気立てがよく、没落したとはいえ旧家出身の貴族で身元も確かだ。親王の添い臥しを務めても、傲慢になることなく侍女としての職務に忠実な彼女を、父帝も叔父も気に入っているのは知っていた。
「何があった?」
「……」
「春香。私は其方を侍女として気に入っている。煌付きの筆頭として信頼もしている」
朱夏の言葉にはっと顔を上げ、しかし春香は何も言えずに俯いた。
「父上に、何を言われた?」
「……っ」
答えない春香に溜息を一つ漏らし、朱夏は立ち上がった。その物音に、春香の肩が跳ねる。
「無理をすることはない。報告が必要なら、私と寝所をともにしたとだけ伝えればよい」
「……親王さま」
弱く首を振る春香に、違和感を覚えた。はきはきと物を言う彼女には珍しい態度だった。
「私は、それほど頼りないか?」
慎重に歩み寄り、春香の前で膝をつく。
「私には、言えぬか?」
「……」
「今宵は煌をこの宮に迎えた喜ぶべき夜だ。いくら其方といえど、他の女を寝所に侍らせたなど、煌に言えると思うか?」
たとえ本当に春香と床に就いたとしても、煌姫に話す気は朱夏には毛頭なかったが。
そっと、震える肩に手を置いた。触れぬようにと気をつけていたが、話が少しも進まない。
「っ!」
「私にも、人に言えぬことはある」
「……?」
「だから、其方の事情も深くは訊かぬ。だが、其方自身を、大切にしてほしい」
春香が泣いてしまうのではないかと思った。新緑の瞳が、蝋燭の明かりを受けて揺らめいている。
「朱夏、さま……」
思わず、といったように零れた呟きに、朱夏は微笑んだ。
「そう呼ばれたのは久しぶりだな」
夏の宮に仕えていた間、春香は朱夏をそう呼んでいた。
「其方が真実、私を慕ってくれていると言うのならば、私もきちんと向き合おう。だが、命じられて仕方なくと言うのなら、今宵は下がるがいい」
「……ご立派に、なられたのですね」
囁くような声に朱夏は苦笑した。決死の思いで主君の寝所に忍んで来たであろう侍女を追い返す己は、果たして本当に立派なのであろうか。
「私は、煌に誠実でありたいだけだ」
朱夏がそう告げると、春香は震えを止めてしっかりと頷いた。
「ご無礼を致しました。次の機会には、親王さまのお気に召すように努めますわ」
「そんな機会はない方が嬉しいがな」
軽口を返し、朱夏は立ち上がった。
春香が出て行った後、深く深く息を吐き出して朱夏は寝台に転がった。
もう、何も考えたくない。




