弐佰捌拾玖
シャファング三世が四季の国を訪れて、二月が過ぎた――。
もうじき、夏煌丸と大船が大港に帰還する季節であった。
「あーっ!しゃふぁ、きたにょね!」
嬉しそうな声に出迎えられたシャファング三世は、夏の初めの気候に耐えきれずに上衣を引っ掛けることをやめてしまった。腰に薄布を巻いただけの姿で本宮を闊歩するため、近頃では侍女たちの姿が本宮の廊下で見られることはない。
春の宮の門をくぐり、朱夏と並んで歩いていたシャファング三世は、元気な声に口角を上げた。
『おお、シュンメーどの。元気そうで何よりだ』
駆け寄ってきた春明の体を軽々と抱き上げ、シャファング三世はその瞳を覗き込んだ。
「ゴキゲン、イカガデスカ」
片言に尋ねられた春明が、シャファング三世の腕の中で大きく頷く。
「ごきげん、よろちよ。しゃふぁ、『ゴチゲン、イカカ、デシュカ』」
春明も、教わったばかりの亜伊夜の国の言葉で、シャファング三世に挨拶を返した。
『うむ。ご機嫌よろしいぞ』
「あにょね、じぃじ、きたにょ」
シャファング三世に抱えられたまま、宮の奥の部屋へと向かう廊下で春明が上機嫌に告げる。
「祖父上がお見えなのか?昨日も来たのではなかったか」
後ろをついて来る烏に尋ねた朱夏は、先月大臣職を辞し、当主の座も退いた輝山の露樹の顔を思い浮かべた。悠々自適の隠居生活だと、春の宮に移った春明が寂しい思いをしないようにと言い訳しながら、日参しているらしい。
春明親王が、春藍親王、春蒼親王と、世話をする乳母や侍女とともに春の宮へ移ったのは、先月の初めであった。
それまでずっと一緒に過ごした母と引き離され、むくれ、泣き出し、時折癇癪も起こしていたらしい。だが、春明が泣くと弟たちも火がついたように泣き始める。泣き声の合唱に、驚いて涙の引っ込む春明の姿が幾度も目撃された。
己が泣けば、幼い弟たちが泣く。そう理解したのか、或いは度々足を運ぶ曽祖父やシャファング三世の存在に慰められたのか、癇癪を起こすことは少なくなっていった。
近頃では、露樹やシャファング三世の訪れを、父である朱夏の顔を見るよりも楽しみにしている様子である。
私室の扉を侍女が開き、シャファング三世に抱えられたまま戻ってきた曾孫の姿に、薬草茶を飲んでいた露樹が目を見開いた。
「これは、今上さま。しゃふぁんぐ三世さまもご一緒でございましたか」
「……祖父上。春の宮に通い過ぎでは?」
「何を仰せか。隠居の身の慰めを、この祖父から奪われるおつもりですかな。今上さまこそ、亜伊夜の国の陛下を引き合いに、こちらへ足を運ばれているではございませぬか」
まったく、口論では決して勝てない相手である。溜息を零し、朱夏はシャファング三世を長椅子へ誘った。
床に下ろしてもらった春明が、曽祖父に駆け寄る。
「じぃじ!きょ、きょお、しゃふぁもいっちょね!」
「そうですなぁ。常より賑やかで、ようございました」
これ以上ないくらいに目尻を下げた露樹が、春明を抱き上げて己の隣に座らせた。
卓の上に人数分の茶器と菓子が運ばれてくる。
『これは何だ?初めて見たぞ』
卓に並べられたのは、北領の雪中果実を使った菓子である。果肉を練り込んだ餅粉が焼き上げられ、柔らかな餡が乗せられていた。
「北領の雪中で育つ果実を使った、焼き菓子だ。四季餅と名づけた」
『餅なのか?』
「いや、生地に餅粉を使ってある。こちらは生地に餡が練り込んであるため、亜伊夜の国までも持って行けるが、こちらの餡が乗ったものは生ものだからな。我が国でしか、食べられない」
二種類の菓子を指差しながら、朱夏が説明する。次に夏煌丸が出航する際には、大量に積んでいけるようにと先日北領から運ばれてきたのである。
ふむふむと頷きながら聞いていたシャファング三世が、日持ちのする焼き菓子へと手を伸ばした。
『では、まずはこちらから食べてみよう』
ぱり、と音を立てて割れた薄い生地の食感に、シャファング三世は驚いたようである。
『これほど薄く焼き上げるとは。シーキ国の菓子職人は優秀だな』
「祥福ともよく合うぞ」
茶器に注がれた薬草茶にも口をつけ、シャファング三世は感嘆したように微笑んだ。
『貪欲に特産品を開発し、海外へ輸出するとは熱心だな。我が国も、何か新たな名産を作るべきか』
唸りながら、餡の乗った菓子に手を伸ばすシャファング三世を、向かい側で春明がじっと見ていた。
『どうした、シュンメーどの?貴殿は食べないのか?』
今にも涎を垂らしそうなほど、口を開けていた春明が、はっとして両手で口を押さえた。
『うん?どうした?』
「わたち、しんのぉにゃの!おちゃ、おきゃくしゃま、おもちぇなしよ」
『俺をもてなしてくれているのか。ありがとう、シュンメーどの。「アリガト」だ』
礼の言葉を告げられ、春明が満足げに頭を振った。だが、その視線はシャファング三世の手元に釘づけである。
小さく笑い声を漏らしたシャファング三世が、卓の上の皿を春明の方へと押しやる。
『なぁ、シュンメーどの。菓子は皆で食べた方が美味い。俺をもてなしてくれるのならば、ともに食べてはくれまいか』
「……いいにょ?」
不安そうに朱夏と露樹に目を向けた春明に、シャファング三世が続ける。
『客である俺が構わんと言っているのだ。ともに菓子を楽しまねば、その方が失礼にあたるぞ』
片目を瞑ってみせたシャファング三世に、朱夏も微笑んで頷いた。
「春明、せっかくのお申し出だ。茶と菓子を、ともにいただくとよい」
「あいっ!」
瞳を輝かせた春明が、長椅子を飛び降りて卓の前に立った。侍女から受け取った小皿に、露樹の分、朱夏の分、と菓子を取り分ける。
真っ先に己一人が菓子に手を伸ばさなかった息子の成長に、朱夏は胸の奥が温かくなる心地であった。




