弐佰捌拾肆
ようやく春明の額から己の額を離し、煌姫は恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。
「親王さま、ありがとう。わたくし、元気になったわ」
「……いたいいたい、ないない?」
「ええ」
片手で春明を支えたまま、煌姫はもう片方の袖口で目元を拭った。
「煌。春明を乗せたままで、重くはないか」
涙を見せた煌姫に、朱夏は敢えてその意味を尋ねなかった。ただ、初めて幼子を膝に乗せて、足が痺れていないかだけを気遣う。
「平気ですわ。でも、第二室さまのお隣にお戻しした方がよろしいかしら」
首を傾げた煌姫に、舎利が微笑んで答える。
「そろそろ、わたくしどももお暇した方がよろしいですわね。春明、お部屋に戻りますよ」
「やっ。ごせいしちゅしゃま、いっちょよ!」
「またそんな我儘を言って……。いけませんよ、父上やご正室さまを困らせては」
「いーやーっ」
ぎゅっと衣を掴み己の胸元に頭を寄せる春明を、煌姫は愛おしそうに撫でた。朱夏に視線を向ける。
「今上さま。今宵の夕餉を、第二室さまや親王さまとご一緒してはいけないかしら」
「この部屋でか?手狭ではないか?」
片眉を上げた朱夏に、煌姫が困ったように微笑んでさらに願う。
「わたくしも、親王さまと離れがたくなってしまいましたの。今上さまがお許しくださるなら、ぜひご一緒したいわ」
煌姫の懇願に、朱夏は舎利に目を向けた。
「第二室はどうだ?体調は平気か?」
「ええ、わたくしは平気ですわ。ですけど、ご迷惑ではありませんかしら」
頬に手を当てて尋ねる舎利に、煌姫は首を横に振る。
「これは、わたくしの我儘なの。第二室さまこそ、お嫌でなければご一緒してほしいわ」
正室の請いに、第二室が反論できるはずもなかった。身分の序列を笠に命令されているわけではないのだ。
舎利は口元に笑みを浮かべて頷いた。
「ご正室さまの、お望みのままに」
「ありがとう。
親王さま。今宵はともに夕餉をご一緒しましょうね」
「……いっちょ?」
「ええ。このお部屋で、わたくしと皆さまと、ご一緒よ」
背を撫でる煌姫の手に気持ちよさそうに目を閉じ、春明はさらに煌姫に抱きついた。
「んっ!いっちょ、うれち!」
私室の空気がようやく緩んだ。
常よりも賑やかな夕餉の時間を終え、舎利が親王たちを伴って退出した後、煌姫は朱夏と並んで長椅子に座っていた。心地よい疲れと、温かな気持ちに瞼が重くなってくる。
「もう休むか?」
盃に注がれた酒を飲みながら尋ねられ、煌姫ははっと目を開けた。
「あ、申し訳……」
「謝ることはない。日頃接することのない幼子と過ごし、疲れたろう?」
肩を抱き寄せられた煌姫は、朱夏の肩に頭を乗せて吐息を漏らした。
「わたくし、幸せですわね」
「うん?」
「第二室さまが素晴らしい方で、春明親王さまもお優しい御子さまで。こうして、わたくしを気遣ってくださる方ばかり」
煌姫の薄茶色の髪を撫でながら、朱夏は黙って続きの言葉を待つ。
「わたくしだって、書物くらい読んだことがありましてよ」
「書物?」
「古の宮廷の物語。時の帝の奥宮に入った女人は、そのご寵愛を競って熾烈な争いを繰り広げるのよ」
「う、む……」
髪を撫でられるのに任せたまま、煌姫が静かに語る。
「だから、夏の宮から奥宮に来るのが怖かった。第二室さまが、朱夏さまのご寵愛を受けているところを、見せびらかすような方だったらどうしようって、怖かったの」
「……」
「朱夏さまがお選びになった方が、そんな怖い方のはずはなかったのに。親王さまを見ていても、それがよくわかったわ」
朱夏の肩から頭を離し、煌姫は卓に置かれた盃を手に取った。ぐいっと、勢いよく飲み干す。
「……っ、こほっ」
「一気に飲むなど、危ないぞ」
慌てて背をさする朱夏に微笑み、煌姫は酒瓶からさらに酒を注いだ。
「春香のお文と、春明親王さま。それに、第二室さまも。わたくしを励まそうと、元気づけようと、皆が気遣ってくれているのだもの。わたくしも、朱夏さまや皆さまを支えられる女人になりたいわ」
「其方は、十分私を支えてくれている」
朱夏の答えに首を振り、煌姫は今度はゆっくりと酒を口にした。
「わたくし、これからもっと学びますわ。正室としての務めや心構えを、華永や莉羅から」
「莉羅はやめておいた方が……」
「第二室さまにも、春明親王さまにも。朱夏さまの正室がわたくしでよかったと、そう思ってもらえるように」
まっすぐに己を見つめてくる薄桃色の強さに、朱夏は安堵して微笑んだ。
細い身体を抱き寄せ、その耳元に唇を寄せる。
「私の正室は頼もしいことだな。だが、たまには私にも守らせてくれ」
「……朱夏さま?」
「其方が強くなりすぎては、私の出る幕がなかろう?男として、情けない」
「ま……」
頬を染めた煌姫が、朱夏の腕の中で静かに目を閉じた。
穏やかな空気に包まれて、奥宮の夜は更ける――。




