弐佰捌拾参
三歳になったばかりの春明とはいえ、箸より重たいものを持ったことがないと言われるほどの煌姫にとっては、未知の重みと感覚であった。
腕の中で、無邪気に笑う春明の顔に、釘づけになる。
「……温かい」
「ごせいしちゅしゃま、げんち。うれちね!」
「あ、ええ。そうね……?」
体勢を崩して春明を落としてしまうことがないように、煌姫の左右に和沙と乳母が支えるように立った。己の腕の中、両手を合わせて上機嫌に首を振る春明を、煌姫はじっと見つめる。
「春明。よかったわね。ご正室さまに抱き上げていただけるだなんて、光栄なことよ。きちんとお礼を申し上げなくては」
「わたち、うれちよ!ごせいしちゅしゃま、ありがちょ」
「ど、どういたしまして?」
くすくすと笑いながら春明を見つめる舎利の表情を、煌姫は注意深く観察した。我が子を抱き上げられても、嫌悪感など微塵も感じさせない様子に安堵する。
抱えた幼子に視線を戻す。朱夏譲りの濃紺の髪は柔らかく、高めの体温を感じて陽だまりにいるような心地がした。今抱き上げているのは、愛する朱夏の血を引く息子なのだ。唐突にそのことを感じて、煌姫は戸惑った。
「ご正室さま。春明の我儘をお聞きくださり、ありがとう存じます。重たいようでしたら、どうぞお離しになってくださいな」
「あ、いいえ。わたくし、その……こうして子を抱くのは初めてで、どうしたらいいのかしら」
舎利が座っている長椅子の傍らに立ち尽くしたまま、それでも煌姫は春明を抱いたまま離そうとはしなかった。華永が侍女にもう一脚、椅子を運ばせてくる。
「ご正室さま。よろしければ、こちらにお座りになられては」
指されたのは朱夏がこの私室を訪れた際に使う、少し大きめの椅子であった。これならば、春明を抱いたまま腰を下ろすことができるとの、華永の配慮である。
「で、でも……」
「春明、ご正室さまを立たせたままではいけません。下ろしてもらいますか?」
「やぁーよっ!ごせいしちゅしゃま、いっちょよ」
煌姫の衣の端をぎゅっと握り、春明がその胸元に顔を押しつけた。近頃、舎利は生まれたての弟たちに構う時間が多い。和沙や浪嶺が相手をしてくれるとは言っても、やはり親王と仕える侍女では立場ゆえの遠慮がある。しっかりと抱きかかえてくれる母のような女人に、春明はすでに夢中であった。
「ど、どうしましょう」
おろおろと視線を彷徨わせた煌姫に、舎利が優しく声を掛ける。
「ご正室さま。ご無礼を承知でお願い申し上げますわ。運ばれた椅子に座られ、春明をお膝に乗せていただけますか?」
「ひ、膝に?」
「ご正室さまが、自分の贈った花で元気になったと、随分喜んでいるようですの。抱き上げてくださったご正室さまと、離れがたく思っているようですわ」
舎利に言われ、煌姫はじっと腕の中を見下ろした。大きな群青色の瞳が、期待に輝いて煌姫を見上げている。
ふふっと笑いを漏らし、煌姫は朱夏を振り返った。
「今上さま、わたくしがこうして、お抱きしたまま座ってもよろしいかしら」
「勿論だ」
しっかりと頷きを返され、煌姫はきゅっと唇を噛んだ後で、慎重に椅子に腰を下ろした。春明を落とさないように、腕に力が入る。
「ご正室さま、大丈夫でございますよ。わたくしが、ここでお支え致しますからね」
華永に声を掛けられ、何とか椅子に座った煌姫は、己の膝の上に小さな体をそっと乗せた。
ほおーっと大きく息を吐き出した煌姫の額の汗を、華永が手巾で丁寧に拭く。
「春明。恐れ多くもご正室さまのお膝の上に座らせていただけるだなんて、嬉しいわね?」
「んっ!わたち、うれちよ!」
膝の上に座った春明が、小さな手を煌姫に向かって伸ばした。
ぺたり、と温かい手の平が煌姫の頬に触れる。
「……っ」
「ね、ごせいしちゅしゃま。うれちね?」
「そう……そうね。嬉しいわね」
煌姫の声が震えたことに気づいたのは、春明以外のすべての者であったろう。
気遣わしげな視線が周囲から向けられる中、春明の上機嫌な声が響く。
「わたち、ははうえ、ちゅき。ちちうえ、ちゅき。ごせいしちゅしゃまも、ちゅきよ!」
「わたくし、も……?」
「んっ!ごせいしちゅしゃま、きえい。やちゃ、やしゃち?わたち、だっこ。やしゃちよ!」
ぽろり、と煌姫の瞳から涙が零れた。驚きに春明の目が丸くなる。
「いたいいたい?」
「わたくしは……優しくなんて……っ」
「いたいいたい、ないないよっ!」
慌てたように手を伸ばし、春明が煌姫の頭を撫でようとする。だが、短い腕では思うように届かず、額に触れるだけになってしまう。
「だいちょぷよ!しゅんめぇ、いりゅのよ。いたいいたい、ないないよ!」
懸命に煌姫の痛みを取り除こうとする春明の額に、とうとう煌姫は己の額を押し当てた。
「……ありがとう、親王さま」
「いたいいたい、だめよっ。ないないねっ!」
誰も言葉を発せない中、焦る春明の声だけが響き渡った。




