弐佰捌拾弐
奥宮の正室のための私室――。
艶やかな藤が描かれた扉が静かに開かれ、浪嶺に腕を支えられた第二室舎利、舎利と手を繋いだ春明親王が華永の案内で室内に足を踏み入れた。後ろから和沙と乳母が続き、大切そうに春藍親王、春蒼親王を抱いて入ってくる。
長椅子に煌姫と並んで座っていた朱夏は、隣の様子を横目で確認しながら口を開いた。
「よく来た。こちらに来て、向かいへ掛けるとよい」
朱夏が指したのは煌姫たちに向かい合うように、卓を挟んで置かれた長椅子である。まだ体力の戻っていない舎利が、浪嶺の手に支えられたままでゆっくりと歩いてきた。手を繋がれた春明は、初めて立ち入る部屋の様子に、きょろきょろと視線を走らせ落ち着かない。
長椅子の傍らに立ち、舎利が口元を隠していた薄青の扇を閉じた。浪嶺の助けを借りて、深く頭を下げる。
「本日は、お招きいただきまして、ありがとう存じます」
繋いでいた手を離して春明の気を引いた舎利は、小さな背にその手を添えた。
「ご挨拶なさい、春明」
母の言葉にきょとんとし、座る朱夏と煌姫に順に視線を向けた春明が、きりっとした表情を浮かべる。
「わたち、しゅんめぇ!しきのくにの、いちのしんにょお!」
最後まで噛まずに言えるかと期待した舎利一行は、自信たっぷりの声で告げられた春明の最後の一言に気が抜けた。
浪嶺の手を借りて、舎利はゆったりと長椅子に腰を下ろす。本日の装いは、群青色の衣に乳白の裳で、華美な宝石などはつけていなかった。春藍、春蒼に乳をやることも多く、襟元は少しだけ緩めに作られた衣を身に着けている。
浪嶺に抱き上げられて舎利の隣に座らせてもらった春明は、舎利と同じく群青の衣に乳白の袴を穿いていた。肩につくほど伸びた濃紺の髪は、首の後ろで一つにくくられ白い飾り紐が結んである。
長椅子の隣に置かれた赤子用の寝台に、春藍と春蒼が横たえられ、侍女たちが薬草茶を運んできた。
卓に茶器を置いた侍女が離れると、深く息を吸い込んだ煌姫が、ゆっくりと口を開く。
「本日は、来てくださってありがとう。今上さまの正室の、煌でございます。こうして挨拶が叶ったこと、嬉しく思いますわ」
微笑む煌姫の表情に、無理をしている様子はない。そのことに安堵し、朱夏が茶器を手にして薬草茶に口をつけた。
静かに茶を楽しむ大人たちの時間に退屈してきたのか、春明が足をぱたぱたと動かし始めた。長椅子から下りようとしたところを、和沙に止められる。
「やぁよっ。わたち、ちちうえと、いっちょよ」
舎利の部屋でならば、朱夏と舎利に挟まれて座っている春明である。今の位置が気に入らない様子であった。
「ははうえ、ちちうえ、いっちょね!いっちょ、すわりゅの!」
「春明、ここはご正室さまのお部屋ですからね。我儘を言ってはいけませんよ」
「やっ!ここ、ははうえ。しゅんめぇも、ここ。ちちうえも!」
舎利と春明の座る場所を指差し、懸命に朱夏を己の隣に誘おうとしている。困り果てた舎利を見てどうしたものかと考えている朱夏の耳に、柔らかな笑い声が聞こえた。
「今上さま。わたくし、親王さまにご挨拶してよろしいかしら」
「……構わぬが」
朱夏の許しに微笑み、煌姫が長椅子から立ち上がった。顔を隠していた濃紺の扇は、閉じて脇の卓に置いてある。
静かに春明に歩み寄り、その群青色の瞳を覗き込んだ煌姫が口を開く。
「春明親王さま。先日は、綺麗なお花をありがとう」
優しく押さえる和沙の手を払い除けようともがいていた春明は、名を呼ばれて驚いたように目を丸くした。口もぽかんと開いたままである。
その表情に吹き出しかけた煌姫は、上品に手で口元を隠す。
「……おはにゃ?」
「ええ。わたくしに元気がないと聞いて、芝桜を摘んでくれたのでしょう?とても嬉しかったわ」
「さくりゃ!」
花を摘んだことを思い出したのか、春明の瞳が輝いた。うんうんと頭を振り、心配そうに煌姫を見上げる。
「ごせいしちゅしゃま?げんち、なっちゃ?」
「ええ、とても」
深く頷いた煌姫に安堵の表情を浮かべ、春明が長椅子から飛び降りた。
「あっ、親王さまっ」
不意をつかれた和沙が慌てた声を出すが、気にする様子もなく春明が煌姫の足元からその顔を見上げた。
「親王さま?」
首を傾げた煌姫は、懸命に伸ばされた手にどうしていいかわからず、助けを求めるように朱夏を振り返った。
「春明。どうしてほしいのか、きちんと口に出して言うとよい」
「……おこりゃにゃい?」
「内容による」
しかつめらしく腕を組んで言う朱夏に、春明は迷うように視線を彷徨わせた後で、煌姫を再び見上げた。
「げんち、なっちゃね。しゅん……わたち、だっこよ」
「えっ?」
「いたいいたい、ないない。わたち、あにうえ。ははうえ、だっこ、ないない」
「……?」
春明の言いたいことがわからず、戸惑う煌姫に軽やかな声が掛かった。
「まあ、春明。兄上になって、甘えん坊は治まったと思っていましたのに。母に抱かれぬことが不満だったのですか?ご正室さまに抱き上げていただこうだなんて、恐れ多いこと」
「あ、えっ?わたくし、に?」
「いたいいたい、ないないよ。しゅんめぇ、だっこ、できりゅのよ!」
普段側で春明の世話をする者は、健やかで体力もある和沙や浪嶺たちである。見舞いの花で元気になったのなら、煌姫にも抱き上げてもらえると信じて疑っていないのだ。
途方に暮れた様子の煌姫に、朱夏はそっと声を掛けた。
「其方が、嫌でなければ。春明を抱いてやってほしい」
「……よろしいのかしら」
頬に手を当てて首を傾げる煌姫に、朱夏も舎利も優しい瞳を向けた。
「本人が望んでいるのだ。構うまい」
きっぱりと告げられ、しばらく視線を彷徨わせた煌姫は、おずおずと幼い体に手を伸ばした――。




