弐佰捌拾壱
しばらく無言で見つめ合った後、朱夏は意を決して口を開いた。
「貴殿の細君は、朕もよく知っている」
一瞬息を呑んだ親雪が、じっと朱夏に見つめられて慌ててその言葉をシャファング三世に伝える。
『……そうだな。リリーナはシーキ国の女だからな。それに、シュカどのの妻の侍女であった』
「そうだ。だから、はる……彼女の好みそうなものは、何となくわかる。だが……」
言い淀んだ朱夏に、シャファング三世が首を傾げた。
『何だ?』
「朕が選んでしまっては、貴殿は面白くないのではないかと思ってな」
朱夏の脳裏に浮かぶのは、微笑む春香と、春香を愛するあまり歪んでしまった妙葵の姿である。以前の朱夏との関係をシャファング三世が知らないのなら、そのままにしておきたかった。
だが、朱夏の懸念をシャファング三世は豪快に笑い飛ばした。
『そのようなこと、些細なことだぞ』
「些細……?」
『そうだろう?今のリリーナは俺の女で、俺の子を産んだ妃だ。これから先、他の男に見られることも、抱かれることもない』
あっけらかんと告げられた内容に、朱夏は目を剥いた。
『そんな些事に気を取られ、妃を喜ばせる機会を棒に振る方が、俺には問題だ。シュカどのがリリーナの好みを知っているのなら、教えてもらいたい』
「あ……そう、か?」
『そうだとも。さあ、シュカどの。どの品がよいと思う?』
朱夏の袖を引いて商品の棚へと誘うシャファング三世に、朱夏は肩の力を抜いた。
結局櫻花楼にいる間に、その日宮中を出ていられる刻限は過ぎてしまった。町中を少し眺めただけで、後は買い物に費やしていたことになる。
だが、春香の好む香だと教えられ、沈香の香木を買い求めたシャファング三世は非常に満足げであった。
宮廷に戻る輿の内で、春香への土産の包みを大切そうに抱えている。凛慈が春明への贈り物と同じように宮中へ届けると申し出たのだが、断って己の手で持ち帰るらしかった。
「そうだ、シャファング三世どの。明日の昼餉はご一緒できぬ」
『そうなのか?何故だ?』
「奥宮で所用があってな。代わりと言っては何だが、その翌日には、貴殿の滞在する部屋に春明を連れて行こう」
煌姫が花の礼を春明に伝えたいという希望を、朱夏は叶えるつもりでいた。すでに舎利の方へはその知らせがなされており、明日の昼間には奥宮の煌姫の私室で、舎利と親王たちの顔合わせがされる予定が組まれていた。
煌姫は自分で春明の元へ行きたがったが、さすがに序列というものがある。舎利たちを煌姫の部屋へと招くことに決まったのだった。
『おぉ、それは楽しみだ。では、今日買ったものはその時に贈るとしよう。……いや、せっかく式典があるのなら、その時に渡した方がよいか?』
「どちらでも、春明は喜ぶだろう。貴殿がよいと思う時に渡してやってくれ」
『そうだな。贈り物をするからには、やはりシュンメーどのの喜ぶ顔が見たい』
「明日は朕はつき合えぬが、行きたいところがあれば伝えてくれ。親雪と文官をつけて案内させよう」
朱夏の言葉にしばらく考え込み、シャファング三世は首を振った。
『いや。どこかに行くならば、やはりシュカどのがともにいた方が楽しそうだ。明日は部屋でゆっくりさせてもらおう』
「貴殿がそれでいいなら。そう言えば、四季の国の湯殿はどうであった?亜伊夜の国とは随分違うのだろう?」
シャファング三世は、日に数度湯殿を使うらしいと報告を受けていた。以前に外交官たちから聞いた亜伊夜の国の湯殿とは、造りも汗の流し方も違うはずだ。
『湯の中に浸かるというのは、初めての経験で面白くてな。アイーヤ国では後宮でも宮殿でも、いつでも好きな時に湯殿を使うのだ』
「その亜伊夜の国の湯殿というのが、朕には上手く想像ができなくてな。気持ちがよいのか?」
『おお。全身に汗を掻き、水風呂に飛び込んだ瞬間は堪らなく気持ちいいぞ』
「いつか経験してみたいものだな」
零された呟きに、シャファング三世が悪戯っぽく口角を上げた。
『造ればよいではないか』
「えっ?」
『俺は詳しい造りはわからんが。一緒に来た従者なら、湯殿の造りはわかるかもしれん。シーキ国の宮殿か後宮に、アイーヤ国式の湯殿を造ればよい』
ぽかん、と朱夏は口を開けた。亜伊夜の国の湯殿を、四季の国に――。
これまで考えてみたこともない提案であった。だが、外交を強くすることを掲げる朱夏の治世において、異国風の湯殿の建築というのは、目に見える成果としてよいかもしれない。
本宮に戻ったなら輝山の大臣や汐之に相談することを心に決め、朱夏は微笑んだ。
「シャファング三世どのと話していると、新たな発見や新鮮な驚きがあって、楽しいな」
『それは俺も同じことだ。これからも、末永くつき合っていきたいと考えている』
宮廷に戻る輿の内、遠く離れた異国同士の帝と王は、力強く握手を交わしたのであった。




