弐佰漆拾捌
シャファング三世との夕餉を済ませ、籠宮の湯殿で汗を流した朱夏は、奥宮へと渡った。
今宵は煌姫の元で過ごす予定である。昼間に華永から聞いた煌姫の気塞ぎも気に掛かる。知らず、足早に歩んでいた。
煌姫の私室の扉を侍女に開けさせると、ふんわりと薫風が漂ってくる。
蝋燭の火に照らされた煌姫が、長椅子にぼんやりと腰掛けていた。大股に近づき、朱夏はそっと声を掛けた。
「煌?気分はどうだ?」
「……朱夏さま」
膝の上で揃えた手に何かを握っているようだ。首を傾げ、朱夏は煌姫の隣に座る。
莉羅が運んできた西領の薬草酒に口をつけ、朱夏は煌姫に話しかけた。
「気分が優れないと聞いたのだが。今はどうだ?」
「わたくし……まだまだ子どもでございましたわ」
「うん?」
ゆっくりと両手を持ち上げた煌姫が、開いた手の平を朱夏に向けた。
「……それは?」
薄桃色の花びらが、大切そうに手の平に乗せられていた。
「あちらの親王さまが、お見舞いにと届けてくださったの」
「ああ……」
頭を抱えそうになった朱夏である。春明本人が来たわけではないだろうが、なさぬ仲の幼子から見舞いを貰った煌姫の心が心配になった。
「あちらの侍女が届けてくれて……華永が、わたくしの色のお花だからと、生けてくれようとしたのですけれど……」
「うん」
「小さな手で握りしめていたから、少し萎れてしまったみたいで。こうして、花びらが落ちてしまったみたいなの」
ふふっと小さく笑い、煌姫が卓の上に手巾を広げた。その上に、花びらを丁寧に並べていく。
「其方に元気がないと、第二室の部屋の隣室で隠れ聞いていたらしい。見舞いには花をと、手ずから摘んだようだな」
「お優しいのね」
「嫌ではなかったか?」
朱夏の問いに煌姫は静かに首を横に振った。真っ直ぐに、朱夏を見つめ返してくる。
「春香からのお文を読みました」
「……っ」
思わず朱夏は煌姫の手を握った。指先が震えていないようで安堵する。
「春香は、何と?」
「ふふっ。恨み言なんて、何も書いてなかった。ただわたくしの体を気遣い、朱夏さまと睦まじく過ごすように、祈りの言葉がたくさん並んでいました」
「そうか」
春香の文に慰められたのは朱夏も同じことである。いつか煌姫も、その文を朱夏に見せてくれる時が来るであろうか。それとも、女人同士の秘密の話として、見せてもらえることはないであろうか。
そんなことを考えながら、朱夏は煌姫の言葉の続きを待った。
「わたくし、下を向いてばかりだったのだと、よくわかりました」
「下を?」
「どうして拐かされてしまったのか、とか。どうして、朱夏さまに第二室さまや親王さまがおいでなの、とか」
何も答えられず、朱夏はただ煌姫の手を握ったままでいる。
「わたくしには、どうして御子が授からないのか、とか。そんなふうに、己の不運を嘆くばかりで」
「……」
「でも、春香がお文に書いていたの。亜伊夜の国の王の御子を授からなくても、きっと自分はあの国に留まっただろうって」
煌姫の言葉に朱夏は息を呑む。四季の国への帰国を、春香自身が諦めてしまっていたのだろうか。
「あちらの王陛下のことを、慕っているのですって。いつからなのか、どうしてなのかわからないけれど、お側にいることを幸せだと感じるのですって」
「……っ」
「だから、御子を授かれなくても、一番お側近くにいることを許されているだけで、嬉しいって」
涙の滲みだした声で、それでも煌姫は泣かずに続けた。
「わたくしは、こうして四季の国に戻ってこられて。朱夏さまのお側にいることを、皆が当然と許してくれているのに。朱夏さまのお立場も考えずに、我儘ばかり」
「そんなことはない」
「第二室さまだって、きっと朱夏さまを慕っておいでなのに。わたくしの立場を考えて、下がった位置にいてくださる。お辛いのは、あちらも同じことなのに」
握った煌姫の手を、朱夏はそっと撫でた。薄桃色と視線が絡む。
「其方がそのように、第二室を思いやれる心の強さを、私は眩しく思う」
眉を下げて泣き笑いのような表情になった煌姫が、ふうっと息を吐いた。
「だから。わたくしは前を向いて、朱夏さまの正室として恥じることのないように、生きなくてはならないのだわ」
「……煌」
「いつかまた春香に会えるかもしれない。いいえ、そんな日が来るかはわからないけれど。でも、その時に、春香に恥ずかしくないようにわたくしは生きるわ」
堪らなくなって、朱夏は煌姫を抱き寄せた。腕の中で、細い体が身動ぐ。
「それでも、御子が授かれないとやっぱり思い悩むかもしれない。朱夏さまを、困らせるかもしれない」
「その時は、私が側について其方を支えよう」
「ふふっ。朱夏さまは、わたくしを甘やかすのね」
穏やかに語られる煌姫の声に、朱夏の胸の内を大きな安堵が包む。煌姫の強さを信じろと言った華永の言葉も思い出された。春香の文で、煌姫の心に前向きな変化が齎されたことは、喜ばしいことだった。
「だから、わたくし。勇気を出すわ」
「勇気?」
「春明親王さまに、お花のお礼を伝えに行こうと思うの」
「それは……」
舎利の元にいるのは、春明だけではない。まだ赤子の春藍と春蒼がいる。幼子の多い空間で、煌姫が再び気を落とすことがないか、朱夏には案じられた。
その内心に気づいたのか、煌姫がふわりと微笑んだ。
「またそんな、心配そうなお顔をなさって。大丈夫ですわ。わたくし、第二室さまにも親王さまがたにも、きちんとご挨拶できましてよ」
「……そう、そうだな。其方は強いな」
「ふふっ。朱夏さまのお側にいられるのですもの。強くいなければ」
涙で濡れた瞳に意思の強さを宿した煌姫は、幼い頃に夏の宮でともに過ごした愛しい従妹姫の顔をしていた。




