弐佰漆拾漆
そろそろ春明を奥宮へ戻そうと、和沙がその体を受け取るために両腕を広げるが、春明は小さな腕をシャファング三世の太い首に回して嫌がった。短い時間に随分懐いたようである。
黒門を抜けて元の場所に戻った朱夏は、苦笑して春明に声を掛けた。
「春明。皆を困らせるものではないぞ」
「いーやーよー!ちゅんめぇ、ちゃふぁと、いっちょ!」
「ほら、また己のことを春明と呼んでいるぞ」
朱夏の指摘に「あっ」と口を押さえ、おずおずとシャファング三世を見上げる。
『うん?どうした?』
「わちゃ、わたち。ちゃ……しゃふぁと、いっちょ。らめ?」
『駄目ということはないが。貴殿はシュカどのの息子だからな。父君が駄目と言うのなら、従わねばならんぞ』
ますますシャファング三世の首に抱きついた春明に、周りの皆も困り顔である。相手は国の賓客である。無理に引き離すわけにもいかなかった。
どうしたものかと悩む朱夏に、シャファング三世がいいことを思いついたというように笑う。
『そうだ、シュカどの。俺はしばらくこの国に留まるのだから、シュンメーどのともっと話す機会を作ってもらえるか』
「春明と?」
『何も後宮でなどとは言わん。俺が滞在している部屋に、遊びに来てもらうのはどうだ?それとも、シュンメーどのは後宮から出てはならん理由でもあるか?』
そう問われ朱夏はしばし考える。本来、親王は生まれてすぐに与えられた離宮に移り、世話をする者と過ごすのが慣例である。冬廉や春明が例外なのだ。
これから四季の国はさらに外交を推し進めていくことになるだろう。幼い内から他国の賓客と接するのは、春明にとって悪いことではないように思えた。
一つ頷き、朱夏は春明に声を掛ける。
「春明。ここできちんと、父の言うことを聞き分け奥宮に戻るならば、シャファング三世どのと一緒に過ごせる時間を作ってやろう」
「……ほんちょ?」
「本当だとも。父が其方に嘘を吐いたことがあったか?」
朱夏とシャファング三世の顔を交互に眺め、精一杯難しい表情を作った春明が、シャファング三世の頬にぺたりと手を当てた。
『どうした?』
「しゃふぁ、わたち、またあえりゅ?」
『勿論だ。また会って、次は茶を飲もう。楽しみにしているぞ』
親雪が丁寧に訳したシャファング三世の言葉にようやく頷き、春明が傍らの和沙に手を伸ばした。
安堵の表情を浮かべて春明を受け取った和沙に、朱夏が囁く。
「今日はもう、第二室の部屋から出させるな」
「かしこまりました。お止めできず、申し訳ございませぬ」
いつもと同じ高さの腕の中に落ち着いた春明が、じっとシャファング三世を見ながら奥宮へと戻っていった。黒門を抜け建物の扉を抜ける際には、両腕を大きく振り回し和沙が少しふらついていた。
ふう、と息を吐き、朱夏はシャファング三世に向き直る。
「お騒がせして申し訳ない。そろそろ、表宮へ戻るとしよう」
『いや、楽しい時間だったぞ。それに、また会わせてもらえるという楽しみもできた』
小姓たちが床几を片づけ、朱夏はシャファング三世と並んで回廊を歩き始めた。
『娘が可愛いと思っていたが、息子もよいものだな』
「朕には息子しかいないからな。娘はどうだ?愛らしさは、息子よりも上か?」
『そうだなぁ。確かに娘は可愛いが、いつかは俺の元を去るのだと思うと難しいところだな』
大真面目にそんなことを言うシャファング三世に、朱夏は吹き出した。
「それは、いずれどこかに嫁ぐからか?」
『うむ。いつまでも、俺の後宮で過ごさせるわけにはいかん。よき男を見つけさせねばならん』
「だが、まだ赤子であろう?亜伊夜の国では恋愛による婚姻が主だと言っておられたろう。まだまだ先のことではないのか?」
回廊の角を曲がり、表宮に差しかかった一行に西日が当たる。奥宮前での騒ぎにより、すっかり夕刻となっていたのだ。
『甘いな、シュカどの。そう悠長に構えていては、娘というものはすぐに年頃になるのだぞ』
「そういうものか?」
『それにな……』
声を潜めたシャファング三世に、親雪が耳を寄せて近づく。
『アイーヤ国ではな。女は幼い方がよいのだ』
「……っ」
『俺の好みとは違うが。三つになる頃には、同じ年の頃の息子たちと顔合わせをさせねばならん』
「そんなに早くから……」
知っていたつもりだった。亜伊夜の国で幼い煌姫が無事だったのは、シャファング三世の好みから外れていたからという、朱夏にとっては運のいい理由によるものだったのだ。
『男はどれだけ年が上でも気にされないが。女は年若であるほどよい。嫁き遅れになる前に、どこかに縁づかせてやるのが親の務めだ』
「いずれの国でも、親の苦労というものはあるのだな」
そんな会話をしながら、朱夏たちは表宮の客間の前まで到着した。
「では、また夕餉の際に。今宵は特に祝宴の予定はないが、貴殿が望むなら宴を開く用意はあるぞ」
『いや。そう金や物を遣わせてばかりでは悪いからな。この部屋で食べる。よいか?』
「勿論だ。気遣いに感謝を。夕餉の時が近くなったなら、またこちらへ来る。ゆるりと過ごされよ」
親雪を伴って客間へ入っていくシャファング三世を見送り、朱夏も執務室へと戻った。今日の政務は、ほとんど輝山の大臣と紘通に任せきりである。夕餉の刻限まで、少しでも溜まった書類を裁こうと朱夏は足を早めた。




