弐佰漆拾陸
春明を抱き上げてもよいかとのシャファング三世の確認に、朱夏は頷くしかなかった。
瞳を輝かせて尋ねられては、強く拒絶する理由もない。
「春明、シャファング三世どのが抱いてくださるそうだぞ」
「ら……だっこ?ちゃふぁ?」
『そら、シュンメーどの』
大きく広げたシャファング三世の両腕の中に、春明がおずおずと手を伸ばした。力強く抱えられ、高く持ち上げられて驚いたようにシャファング三世の上衣の端を掴む。
『おぉ、子とはこのように軽いものか』
『陛下、落とされませんよう』
シャファング三世の側で手を広げ、何事か起きてもいいように親雪が構えた。その隣に、汐之の許可を得て和沙が立つ。
「春明、どうだ?」
「ちゃ、ちゃかい……」
「茶会?……ああ、いや。高いと言ったのか」
常より高い目線で、春明がきょろきょろと周りを見渡した。夏勢院の見舞いや二歳の生誕の式典などで奥宮から出たことはあっても、普段女性に囲まれての奥宮での景色とはまるで違う。ぎゅっとシャファング三世の上衣を握ったまま、その場にいる人々や周囲の壁などを群青色の瞳を丸くして見ていた。
「シャファング三世どの。幼子を抱き上げるのは初めてか?」
『うむ。俺の娘はまだ赤ん坊だからな。後宮で女たちが大事に育てている』
「……そうか」
はしゃぎ始めた春明に慈しむような瞳を向け、シャファング三世が黒門の方へと視線を移した。
『お?誰か見ているぞ』
「えっ?」
朱夏が慌てて黒門へ目をやると、侍女長の華永が心配そうに建物の奥から覗いているのが見えた。
『あれは、後宮の侍女か?』
「うむ。奥宮の侍女たちを統べる侍女長だな」
『貴殿の皇子を迎えに来たのか?』
「いや……」
奥宮全体の統括を担う華永だが、基本的には煌姫の側に侍っているはずである。春明には和沙がついて出てきたのだから、迎えということも考えにくい。
「湊刃の大臣。ここは任せる」
「今上さま?」
「少し、華永と話をしてくる。
シャファング三世どの、済まぬな。少し外す」
親雪の通訳を待って、シャファング三世が頷いたのを確かめた朱夏は、黒門へと足を向ける。後ろで、上機嫌な春明の声が聞こえていた。
黒門を抜け建物の入口まで来る朱夏に気づいた華永が、薄く開いていた扉をさらに開けて外へと出てきた。
朱夏の前で深く頭を下げる。
「華永、何故ここにいる?煌の私室にいたのではないのか」
「その……春明親王さまが奥宮から出られたと知らせがありまして、確認に。本日は、奥宮の者はお許しがあるまで外へ出ないようにと、通達がございましたから」
華永の言葉にああ、と頷き朱夏はちらりと後ろを振り返った。シャファング三世に抱き上げられた春明が、近衛隊の者たちを指して何か叫んでいる。それをにこにこと眺めるシャファング三世の様子に安堵し、華永に向き直った。
「煌はどうしている?」
春香からの文を手渡したのは今朝のことである。もう読み終えたであろうか。
「少し、ご気分が優れないご様子でしたので、ご寝所でお休みいただいておりました」
「体調がよくないのか。薬師は呼んだのか」
「いえ、そういったことでなく……何か物思いに耽っておいでのご様子で」
頬に手を当てた華永に朱夏は尋ねた。
「……文を、読んだのか」
「おそらく。それで、できれば本日は、春明親王さまがお部屋からお出ましにならないように、第二室さまの元へお願いに参りました」
「第二室は何と?」
「快くご了承いただきまして。ご正室さまが落ち着かれるまででよいと、お願い申し上げたのですが……。やはり、元気の有り余られている親王さまを、ずっとお部屋に留め置かれるのは難しかったようですわね」
苦笑した華永の言葉を聞きながら、朱夏は春明が何故花を摘もうと思ったのかに納得した。
舎利の部屋で、隣室から華永との会話を聞いていたのだろう。「ご正室さま」が誰のことを示しているかわからずとも、元気がないと聞いて見舞いの花を摘みに部屋から駆け出したと思われる。
ふう、と息を吐いて、朱夏は華永に煌姫の側へ戻るようにと告げた。
「春明が部屋を出たのは、煌のための花を摘むためだったようだ」
朱夏の言葉に華永が萌黄色の瞳を大きく見開いた。口に手を当て、シャファング三世に抱き上げられている春明に視線を送る。
「第二室と其方の話をこっそり聞いていたようだ。煌のことが誰かわかっていなくとも、元気のない相手に見舞いの花を贈らねばと考えたのだな」
「何と、お優しい親王さまでございますね」
感動したような華永の返事に頷き、朱夏はだが、と眉間に皺を寄せる。
「煌がそれを喜ぶかはわからぬ。幸い、春明の意識は今、亜伊夜の国の王に向けられているからな。あのまま忘れていてくれるといいのだが」
「いえ、今上帝さま。せっかくの親王さまのお心遣いです。ご正室さまも、きっと受け入れられるでしょう」
「だが……」
幼い手を振り払われれば、傷つくのは春明だけではない。煌姫自身も、己の振る舞いに傷つくことだろう。
朱夏の懸念を、華永は笑い飛ばした。
「ご正室さまを、見くびっておいでですわね」
「見くびる?」
「帝一族の姫に生まれ、今上帝さまのご正室さまとして奥宮に構えられたのです。今は大切な御方からのお文で、少し気落ちされているだけですわ。きっと前を向かれます」
「……」
それに、と華永が顔の横で指を立てた。
「今上帝さまがそうして過保護に甘やかされれば、ご正室さまはご自身の足で立つことがおできになれなくなりますわ」
「……っ」
息を呑んだ朱夏に華永が続ける。
「ご正室さまのお強さをお信じあそばして、前を向くことができた暁には、うんと褒めて差し上げればよろしいのです」
きっぱりと言い切って建物の中に戻っていく華永の背を、朱夏は言葉もなく見送った。




