弐佰漆拾伍
汐之に抱きかかえられた春明親王は、春らしく淡い水色の衣と群青の袴を身に着けていた。汐之の腕の中、滅多に出ることのない奥宮との景色の違いに、瞳を輝かせている。
汐之の後ろから烏と和沙が続き、さらに先ほど送り込んだ武官が一同を護るように左右に並んでいた。
朱夏の前までやって来た汐之が、恭しく頭を下げて春明を床に下ろす。
「ちちうえ!ちゅ、しゅんめ……わた、わたち。ごきげんよろ、よろにゅ……」
三歳の祝いの宴に向けて、少しずつ親王としての言葉を覚え始めた春明が、朱夏に挨拶しようと懸命に言い募った。汐之の後ろに控えた和沙が、はらはらと胸の前で両手を組んでいる。
「わたち!ごきげん、よろち!」
「そうか。健やかで何よりだ。
シャファング三世どの、紹介しよう。朕の一の親王で、春明だ」
床几に座ったままのシャファング三世に、春明の顔がよく見えるようにと朱夏は息子を手招いた。だが、先ほどまでの元気はどこへやったのか、春明は汐之の袴をぎゅっと握りしめて動かない。
「春明?」
「ちち、ちちうえ……だりぇ?」
不安そうな瞳の先には、ゆったりと座る異国の美丈夫の姿があった。
生まれてこの方見たことのない褐色の肌を晒し、海色の双眸を細めている男。絹糸のような白髪を一つに纏めたその大きな男に、父が丁寧に語りかけているのが不思議であったのだ。
「春明、こちらはな。遥か海を越えて我が国にお越しになった、亜伊夜の国の王だ。シャファング三世どのという」
「ちゃ……しゃふぁ……?」
「シャファング三世どの。其方には、まだ難しかろうな」
『シュカどの。俺も皇子殿下に挨拶してもよいか?』
わくわくといった表情で瞳を輝かせる異国の王に、朱夏は微笑んで了承の答えを返す。
「無論だ。親雪、春明にもわかりやすく通訳を頼む」
「御意」
床几から立ち上がったシャファング三世が、汐之の側を離れない春明の前まで歩きしゃがみ込んだ。
『初めまして、シュンメーどの。俺はアイーヤ国第二百代国王、シャファング三世だ。貴殿の父君と友人になった。よろしくな』
親雪が、ゆっくりと一言ずつ区切るように、シャファング三世の言葉を幼子にもわかるように苦心しながら春明に伝えた。
「わたち!ちゅんめぇ!」
挨拶をしてもらえたことが伝わったのか、汐之の袴を握りしめたまま春明が胸を反らした。その拍子に、指先に摘んでいたらしい花が床に落ちる。
「あっ!おはにゃ!」
慌てて拾おうとした春明の目の前で、褐色の肌の大きな手が伸ばされた。
『花を摘んでいたのか?綺麗な花だな』
床に散った花びらを丁寧に拾ってやり、シャファング三世が薄桃色の花弁を春明に手渡した。
「さくりゃ!さくりゃの、おはにゃよ!」
『シーキ国の花か?』
「あげゆのよ!げんち、ないないって、ははうえゆった」
言葉も通じないはずの二人が、すっかり打ち解けているかの様子に朱夏は息を漏らした。いつの間にか、春明の指は汐之の袴から離れ、内庭で摘んだらしい芝桜の花を手にシャファング三世に話しかけている。
『元気がない?誰かの見舞いにやるのか?優しいな』
「んー。ご、ごせい、しちゅ、しゃま?」
『幼子の言葉は難解だな。ツィカユーキ、よく聞き取れるな?』
『いえ、私にもすべては無理でございます』
和やかな会話が続いているが、春明の言葉に朱夏は固まっていた。二人の様子を見守っている汐之を、目線だけで側へ呼び寄せる。
静かに近寄ってきた汐之に、朱夏は囁いた。
「ご正室さまに、と言ったか?」
朱夏の問いかけに汐之が難しく眉を寄せる。腕を組んで春明たちの方を窺いながら、朱夏に答える。
「私にも、そう聞き取れましたな。ですが、親王さまとご正室さまを会わせるような真似を、和沙たちが許すはずはありませんが」
「それに、第二室が春明に、正室の話を聞かせるとも思えぬが」
舎利から煌姫に元気がないと聞けば、今のように感情のまま、煌姫の私室へ突撃してしまいかねない。
春明の側で控えている和沙を呼びつけるか悩んでいる朱夏たちの耳に、幼い声が響いてくる。
「はにゃえ、ゆったのよ。ごせいしちゅ、しゃま、げんち、ないないって。ははうえ、こっち。ちゅんめぇ、こっちよ」
短い両手を大きく動かし、春明が何事かを必死に説明している。
『……ふむ。母君とその「はにゃえ」の話を、隠れてこっそり聞いていたということか?』
通訳する親雪と相談しながら、シャファング三世は答えにたどり着いたようである。
理解を得られたと感じたのか、春明が満足そうに何度も大きく頷いた。
「げんち、ないない。おはにゃ、うれちね?」
『だが、貴殿の母君とシュカどのの正妃は、その……仲がよいのだろうかな』
「んー?」
『ああ、いや。貴殿にはまだ早いか。済まぬ。今のは忘れて……いや、いい。ツィカユーキ、訳さなくていい』
シャファング三世の瞳が朱夏に向けられた。気遣わしげな色に、朱夏は微笑んで汐之から離れる。
「息子の相手をお任せしてしまって申し訳ない。心ゆくまで、会話できただろうか」
『いや、興味深い。貴殿によく似て、心優しく強き男子であるな』
「貴殿にそう言われるのは面映ゆいな。
春明、父はシャファング三世どのとの話がまだ残っている。そろそろ母上の元へ戻るがよい」
和沙を手招きながらの朱夏の言葉に、春明がむくれてみせた。
「やぁーよっ。ちゃふぁ、ちゅんめぇと、おはなちよ!」
『それは俺のことか?』
面白そうに口角を上げたシャファング三世に、春明も機嫌よく頷く。
何故か意気投合してしまっている二人の姿に、頭を抱えそうになった朱夏であった。




