弐佰漆拾肆
慌てて立ち上がった朱夏は、黒門の先に見える建物をじっと凝視した。
閉ざされた門から春明が出てこられるはずはないのだが、建物の外にまで響き渡る大声はシャファング三世の耳にも届いたことだろう。どうしたものかと考え、朱夏は汐之に縋るような視線を向けてしまった。
苦笑を浮かべた汐之が、悠然と口を開く。
「今上さま、シャファング三世陛下。しばし、御前失礼致します」
「……立ち入りを許す」
『何だ?どうした?』
側を離れて奥宮へと向かっていく汐之の背に、シャファング三世が驚いた瞳を向ける。
「少し、子が騒いでいるようだ。湊刃の大臣が様子を見に行ったゆえ、戻るまでここでともに待つとしよう」
床几に座り直した朱夏の言葉に、シャファング三世が首を傾げた。
『子と言ったか?貴殿の息子のことか?』
「奥宮にいる幼子は、朕の息子だけだ」
『そうか。貴殿の皇子はいくつだ?』
「この春、三つになった」
思いの外長居することになり、烏が小姓に指示して茶の支度をさせ始めた。薬草茶の香りが、回廊中に漂う。
『会ってみたいな』
『陛下っ?』
淀みなく通訳をしていた親雪が、驚きに声を上げた。
「どうした、親雪?」
「あ、申し訳ございませぬ。その、シャファング三世陛下が、会ってみたい、と」
その言葉に目を瞠り、朱夏はシャファング三世の顔をまじまじと見つめた。
『駄目か?俺の後宮にはまだ姫しかいなくてな。息子というものを見てみたかったのだが』
「その、まだ幼く、シャファング三世どのに失礼があるやもしれぬ」
朱夏の懸念をシャファング三世が豪快に笑い飛ばす。
『幼子のすることに、目くじらを立てたりはせんぞ。何より、貴殿は俺の友人だ。突然訪れた俺をこうして丁寧にもてなしてくれている。その貴殿の息子が、粗相をするなど思わん』
「友人……」
親雪から伝えられたシャファング三世の言葉に、朱夏の胸を温かいものが包む。
気恥ずかしくなって視線を逸らした朱夏は、烏を側に呼び寄せた。
「湊刃の大臣に、春明を連れて来るよう伝えて参れ」
驚きに目を見開いた烏が、気遣わしげに尋ねる。
「……よろしいのですか」
「護衛に近衛の武官をつけろ。それと、乳母か和沙をともに……」
朱夏とシャファング三世を囲むように配置されている近衛隊の武官に、朱夏は目を向けた。奥宮で警護を担うのはすべて女性の武官であるため、シャファング三世の御前に姿を見せるのは躊躇われる。
「いや、乳母よりは和沙の方がいいな。肝の据わった女人が側にいた方が、春明も心強いだろう」
懐から取り出した紙に汐之への指示を簡潔に書き、朱夏は烏に手渡した。
「黒門を抜け、建物の入口でこれを内にいる武官に手渡せ。湊刃の大臣も、まだそれほど奥までは入っていないだろう」
「御意」
書きつけを大切そうに掲げ、烏が近衛隊の武官を二名引き連れ黒門へと向かった。
烏の背を見送る朱夏に、シャファング三世が声を掛ける。
『シュカどの?貴殿の側近は後宮に立ち入れるのか?』
黒門を抜けた烏の姿に、シャファング三世は不思議そうな表情である。小さく笑って朱夏は答えた。
「せっかく貴殿が朕を友人と評してくれたのだ。再びこの国に来ていただけるかもわからない。息子にも、シャファング三世どのに目通りする機会を与えてやりたい」
その言葉に、亜伊夜の国から来た王は瞳を輝かせた。
『おお、会わせてもらえるのか。楽しみだな』
上機嫌にそう答えたシャファング三世が、亜伊夜の国の従者から茶器を受け取って口をつけた。
「そう言えば、気になっていたのだが」
『何だ?』
薬草茶を飲み干し、従者に茶器を返したシャファング三世が首を傾げる。
「貴殿は一国の王だというのに、毒見はさせないのか?」
四季の国に到着した夜の祝宴でも、その後に朱夏と差し向かいで酒を飲んだ時も。
こうして茶を飲む時にさえ、シャファング三世は従者に毒見をさせていなかった。遠い異国の地で、あまりにも警戒心が薄いのではなかろうか。朱夏は心配になる。
『毒見か。実はな、アイーヤ国では毒見したものしか口にできない』
「うむ」
王として当然のことである。
『だが、毒見済みの食事というものは、まずくはないが美味でもないのだ』
「はっ?」
『厨で毒見、俺の部屋まで運んでくる廊下で毒見。部屋の入口でもまた毒見だ。そして、俺の前の卓に料理を並べられ、最後にまた毒見される』
一本ずつ指を立てながら説明された言葉に、朱夏は口を開けて固まった。四季の国でも帝一族の口に入るものには毒見が必要ではあるが、一度の食事でそれほど念入りにされることはない。
『で、だ。俺がようやく口にできる頃には、料理はすっかり冷めてしまっていてな』
「それは……そうだろうな」
頷く朱夏に、シャファング三世が悪戯そうに目を細めた。
『今、俺はシーキ国で羽を伸ばしているのだ。小言のうるさい宰相も、俺のやることに難癖をつける重臣どももいない。作られた料理は作られたままに、美味い状態で食べられる』
「う、む」
『多少毒が入っていようとも、俺の体は頑丈だ。死を恐れてまずいものを食べるくらいならば、美味な食事を楽しんで事切れた方が幸せだろう?』
よいのかそれで、と思わなくもない朱夏であったが、四季の国と亜伊夜の国では考え方も感じ方も、何もかもが違うのだ。つき従っている従者が何も言わない以上、朱夏に言えることはなかった。
苦笑して返事を返そうとした時、朱夏の耳に再び元気な声が届いた。
「ちちうえーっ!」
両手をちぎれそうなくらい振り回した春明が、汐之に抱えられて奥宮の建物を出てくるところであった。




