弐佰陸拾捌
籠宮の寝所で朝を迎えた朱夏は、酒を過ごしたにも関わらずすっきりとした目覚めであった。
ゆっくりと起き上がり、枕元に置かれた春香からの文を再び読み返す。
昨夜は寝入る直前まで、こうして何度も文を読んでいた。紙に皺が寄らないように、卓に置いて眠るつもりであったのに、気づけば読みながら寝てしまっていたようだ。
ふ、と口元に笑いを浮かべ、朱夏は文を丁寧に畳んで封をし直した。
寝台脇の小卓の抽斗に、大切にしまう。生涯の宝にしようと、朱夏はそう心に決めた。
扉の外から烏に声を掛けられ、朱夏は許可を出した。手水の盥を手に寝所へ入ってきた烏は、主君の顔色のよさに目を瞠る。
「おはようございます、今上さま」
「うん、おはよう」
顔を洗い、口をゆすいだ朱夏は勢いよく寝着を脱ぎ捨てた。
「湯は沸いているか?」
「はい」
「湯浴みをしてくる」
上衣を羽織り寝所を出た朱夏に、烏が静かについて来た。卓の上から朱夏宛ての文がなくなっていることに気づいただろう。だが、そのことについて何も言わなかった。
「湯浴みの間に、奥宮に使いを出せ」
「ご正室さまですか?」
「あちらで朝餉の支度をさせろ。春香からの文を煌に渡してくる」
「御意」
煌姫宛ての文に春香が何を書いてきているかはわからない。だが、朱夏の心をこれだけ軽くしてくれたのだ。きっと煌姫にも、いい方向へ向かえるような言葉を綴ってくれているだろう。
翳りのない笑顔を見せてくれるようになることを期待して、朱夏は湯殿で汗を流した。
前触れなく早朝に奥宮へ姿を見せた朱夏に、黒門を護る武官が驚きに目を瞠った。
はっと我に返り、拝礼して黒門を開ける。
懐に春香からの文をしまったまま、朱夏は足早に奥宮へ足を入れた。
煌姫の部屋の前に立つ侍女に扉を開けさせ、声も掛けずに内へと入ると、起きたばかりであったのか煌姫が朝の薬草茶を飲んでいるところであった。
朱夏の姿に驚き、慌てて立ち上がろうとする煌姫を手で制して歩み寄る。
「突然来て済まぬ」
「あ、いえ……おはようございます、朱夏さま」
「うん。おはよう」
亜伊夜の国の王が来訪していることにより、しばらく奥宮へは顔を出せぬと知らせを出してあった。その翌朝にこうして朱夏が来たことに、煌姫が首を傾げる。
「どうなさいましたの?」
「其方に、渡すものがあってな。こちらで、朝餉をともにしたい」
「それは、構いませんけれど」
煌姫の隣に並んで腰を下ろし、朱夏は言葉もなく煌姫の体を抱き寄せた。
「しゅ、朱夏さまっ?」
腕の中で慌てる煌姫のつむじに唇を当て、朱夏は耳元で囁いた。
「春香から、其方に文が届いた」
「っ!」
「朝餉が済んだなら、其方に渡すから。私が朝議に赴いた後にでも、ゆっくり読むとよい」
薄桃色の瞳を大きく見開き、唇を震わせた煌姫が何かを言おうとして口を噤む。うろうろと視線を彷徨わせ、背を撫でる朱夏の手から逃れようと身を捩った。
「煌?」
「はる……春香、が……き、きっと、わたくしを恨んで……っ」
「恨む?其方をか。何故?」
宥めるように背を撫で続けながら、朱夏は静かに問いかけた。煌姫の中で、春香は己を護るためにかの国の王に身を投げだした、被害者なのだろう。だから、四季の国にもともに戻れなかったと、どこかで思っている節がある。
「わた、わたくしだけっ、こうして朱夏さまのお側に、戻ってきた、から……」
「それで其方を恨むような、そんな女だったか?」
「いいえ、いいえっ。でも……っ」
そっと身を離し、朱夏は煌姫の頬を両手で包んで瞳を覗き込んだ。
「たとえ恨み言が綴ってあろうとも、其方は春香の主だったのだ。きちんと受け止めねば」
「……っ」
「亜伊夜の国の王が持参された大切な文だ。返事も待っておられる。時をかけてもよいから、春香の想いに向き合い、其方の言葉を返してやれ」
「……」
顔を青ざめさせる煌姫の額にもう一度口づけをして、朱夏は壁際でおろおろと控える莉羅に視線を向けた。
扉の側には、朝餉の膳を持ったまま逡巡している侍女もいる。
「膳を運べ」
「は、はい……」
「煌。しっかり食べて、心を落ち着けよ」
まだ震えたままの煌姫の体を、卓に向けさせながら朱夏は言葉を重ねる。
「其方が私についていてほしいなら、朝議は休んで側にいる。一人で春香の文を読むのが怖いか?」
「……っ、はい」
「ならば、私もここにいよう」
卓に並べられる朝餉の膳を眺めながら朱夏が言うと、煌姫は唇を引き結んでぶんぶんと頭を振った。
「煌?」
「わた、わたくしっ。一人で、春香からのお文を、一人で読みますわ……っ。朱夏さまは、どうぞ、ご政務へ」
煌姫の髪を撫で、その心の内を探るように朱夏は尋ねる。
「平気か?」
「だって……春香はわたくしにお文をくれたのですもの。も、もしかしたら、殿方にはお聞かせできないようなこと、かもしれないし……」
その言葉に朱夏は眉を下げて微笑んだ。
「何だ。私は除け者か?」
からかうように軽い声を掛けると、瞳に涙を溜め始めた煌姫がようやくうっすらと笑みを浮かべた。
「そうですわっ。わたくしと、春香だけの秘密のお話が書いてあるかもしれませんもの」
「それは寂しいことだな」
「だから、一人で読みますわ。わたくし、朱夏さまの正室ですもの。ご政務に行かれるのを引き留めるような、そんな真似は致しませんわ」
姿勢を正してきっぱりと告げた煌姫に、朱夏は微笑みを浮かべたまま頷いた。




