弐佰陸拾漆
酒を飲みすぎた朱夏は、シャファング三世の客間を辞した後、烏を伴って籠宮へと戻ってきた。
胸の鼓動が早く、心臓の音が己の耳にまで聞こえてきそうであった。
懐に手を当て、内にしまった書状の存在を確かめる。
居室の扉を烏に開けさせ、朱夏は取り出した二通の書状を卓の上にそっと置いた。椅子に腰掛け、じっと封書を睨む。
こうして眺めていても、シャファング三世の側室が――春香が何を思い何を書いてきたのかはわからない。だが、酒精の回った頭で冷静に読み進められるか、朱夏には自信がなかった。
扉を閉じる音に我に返り、朱夏は視線を移した。烏が、朱夏の夜着を持って歩いてくるところであった。
「今上さま。今宵は大分お酒を過ごされておいでですから、湯浴みはなされない方がよろしいでしょう。今、手水の盥を運ばせますから」
「……うん」
「水を飲まれますか?」
烏の問いに頷き、朱夏は小さく吐息を漏らした。
杯に注がれた水を受け取り、喉を鳴らして一気に飲む。少し気持ちが落ち着いたような気がして、朱夏は烏に杯を手渡した。
「読まれないのですか」
烏の視線の先には、二通の書状がある。煌姫宛てのものは、明日の朝奥宮に行って手渡すつもりだった。
丁寧に『朱夏さまへ』と書かれた封書に目を向ける。
「読んだ方が、よいのだろうな」
「亜伊夜の国の王は、ご正室さまの返事をお待ちになると仰せでした。今上さまからのお返事は、求めておられないでしょう。お読みにならずとも、咎められることはありません」
朱夏宛ての文を手渡すだけでも、不機嫌そうに表情を歪めていたシャファング三世を思い出し、朱夏は小さく笑った。あれほど、己の感情を正直に表に出せる王というものが、もの珍しく羨ましかった。
「豪放な王であったな」
「従者一人を連れただけで、遠く四季の国までおいでになられたのですから、当然かと」
「私には、できぬな」
零された呟きに烏は眉を下げた。たとえ朱夏が外遊を望んでも、輝山の大臣や汐之が許すとは思えなかった。海を渡るというのは、想像以上に危険な旅なのだ。
「……春明が成長したなら、私が外国に渡る機会も得られるであろうか」
「外国へ渡って、何をなさいます」
「いや……具体的な何かがあるわけではないのだが」
「今上さま」
ぼんやりと答えた朱夏の前に回り込み、烏が膝をついた。
「烏?」
「貴方さまが、真実外国へ渡ることをお望みになるのなら、吾はどこまでもお供致します。ですが……」
「うん」
「ままならない現実から、逃げたいとお考えならば、吾はお諌め致します」
烏の厳しい言葉に、朱夏は答えられなかった。
顔を洗い体を清め、夜着を纏った朱夏は烏を下がらせて椅子の背凭れに体を預けた。
しばらく天井を睨み、眉を寄せて目を閉じる。頭の中に、様々な光景が浮かんでは消えた。
奥宮で過ごす煌姫と舎利のこと。春明や、春藍、春蒼のこと。
重臣たちのこと。上手くいっているようで、何一つ前に進んでいないような心地になってくる。
目を開け、朱夏は背凭れから体を離して姿勢を正した。唇を引き結び、卓に置いた書状に手を伸ばす。
ゆっくり、封を開ける。ふわり、と沈香が香ってきた。懐かしい香りに鼻の奥がつんと痛んだ。
指先が震えないように気をつけながら、朱夏はそっと紙をめくった。
亜伊夜の国の筆や墨は四季の国のものとは違うのか、見慣れない薄青の墨で流麗な文字が書き綴られていた。
筆ではなく、羽ペンと呼ばれる文具を用いて綴られた文らしい。
まだ慣れない文具で、見苦しい文字が申し訳ないと季節の挨拶に続いて書かれている。
慎重に読み進める朱夏の脳裏に、夏の宮でともに過ごした春香の笑顔が浮かんできた。
最後に会ったのは、妙葵に下賜する直前であった。再興した生家に戻り、輿入れの支度に取り掛かると、嬉しそうに報告してくれた。
煌姫が春香の花嫁衣装に刺繍していた姿も思い出す。
少しずつ、視界が滲んでくるような気がした。
文面には、朱夏と煌姫を気遣う言葉が並んでいた。望んでやって来た亜伊夜の国ではないが、それでもこれが己の運命だと、受け入れて幸せに生きていく覚悟も綴られている。
春香からの文は上質の紙で、幾枚も書き連ねられていた。
朱夏と煌姫が、四季の国で並び立ち、穏やかに過ごしていけることを願う言葉で文は結ばれていた。
長い時間をかけて読み終えた朱夏は、文を膝の上に乗せたまま天を仰いだ。
目を閉じて、遠い異国に思いを馳せる。二度と会うことのない昔馴染みの侍女。
四季の国までやって来たシャファング三世は、春香を心から慈しんでいるように見えた。
あの豪快な王に愛されて、今度こそ幸せに暮らしてくれるように、朱夏は心から願ったのだった――。




