弐佰陸拾参
本宮のあちらこちらを、文官や侍女たちが走り回っている。
予期せぬ国外の要人の出迎えに、宮中に仕える者は上から下まで大騒ぎであった。
宴の支度。湯殿の支度。滞在する部屋を整え、緊急の要請を受けた櫻花楼から黒檀の調度品の数々が運び込まれる。
現在宮中にいる者の中で、唯一その王に目通りしたことのある築岳も帝の執務室へと呼び出されてやって来た。
政務どころではなくなった朱夏が、入ってきた築岳を己の向かいに座らせ卓に置いた分厚い書物を指さす。
「忙しいところ呼びつけて済まぬな」
「いえ。今上さまこそ、急な知らせであられたとか」
「うむ。……これは、先年櫻花楼から買いつけた外国の言葉が載った書なのだが」
朱夏の指した先に視線を向け、築岳も頷いた。
「私どもが初めて外交官として大陸に渡る際にも、同じものを買いつけました。とても重宝致しました」
「恐らく通訳は、親雪か其方に任せることになる。だが、始めの挨拶くらいは、朕も直接伝えたい。至急覚えるべき言葉は、この書物に載っておるか?」
「成る程。それで私を呼ばれたのですね」
納得したように首肯した築岳が、卓に置かれた書物を手に取った。ぱらりと頁をめくり、何枚か紙をめくったところで手を止める。
朱夏に向かって書物を広げてみせ、数カ所を指し示した。
「まずは、こちらですね。『初めまして』、『ようこそ』、『歓迎する』」
「はし……はじめ……?」
「『初めまして』」
「『初めまして』」
築岳の座る後ろに回った汐之が、朱夏と同じように口の中で亜伊夜の国の言葉を復唱した。
「この三語はそれほど発音も難しくありませんので、陛下にお会いになる刻限までには覚えられるでしょう。今上さまは、他にどうしてもご自身でお伝えになりたいことはございますか?」
「そうだな」
腕を組んだ朱夏の脳裏に浮かんだのは、遠い面影である。だが、公の場でそんなことを尋ねるべきではない。朱夏との関係など、亜伊夜の国の王には関わりのないことでもある。
緩く首を振って、朱夏は築岳を見据えた。
「あちらがどのような思惑で来たのか、それを尋ねたい。会話は、其方らに頼りきりになるやもしれぬ」
「思惑、でございますか」
「我が国を来訪するという親書も前触れもなく、商人の船に高貴な身分でいきなり乗り込んできた理由が、今ひとつ掴めなくてな」
生真面目に悩む朱夏に、築岳が困ったように眉を下げた。その様子に気づいたのは汐之である。
「築岳?どうした?」
「ああ、いえ。その……」
「何だ?」
朱夏も視線を上げる。顎に手を当て、築岳が首を傾げながら口を開いた。
「私の推察でよろしければ」
「聞こう」
「恐らく……面白そうだ、と思われたのではないかと」
「「はっ?」」
朱夏と汐之の声が重なった。さらに苦笑を深めた築岳が続ける。
「面白そう……?」
顎から手を外した築岳が、真面目な表情を作って朱夏を見た。
「これまで国交のなかった遠方の島国。ご細君を取り戻すために、我ら外交官を送り込んできた豪胆な今上さまに、ご興味を持たれたのだと思います」
「……そんな、ことだけで、海を渡ってきたのか?」
「あの陛下ならばあり得ます」
深く頷いた築岳を、朱夏は呆然と見つめることしかできなかった。代わりに口を開いたのは汐之である。
「亜伊夜の国は、それでよいのか?王が不在の間に、誰かがその地位に取って代わろうなどという、謀反の心配はないのか?」
汐之の問いにも築岳は苦笑いである。
「あの国は、太陽の神というものを信仰しております」
「……太陽の神?」
「国の頂に立つ王は、その太陽の神の現世での姿だと。そう信じられております」
「……」
目を瞠った朱夏に築岳の話は続く。
「つまり、不在の王に取って代わるということは、神に取って代わるということです。そんな恐れ多い真似は、信仰深いあの国では誰も成さないでしょう」
「……では、王がこうして他国を訪れている間に、その身に何事か起きたならどうなる?」
人的な脅威がなくとも、亜伊夜の国から四季の国までは長い時がかかるのだ。その間、不慮の出来事が絶対に起きないとは言い切れない。
「その時は、それが神の思し召しと、新たな王を定めるはずです」
「何と言うか……奔放というよりも、達観しているのだな?」
「達観はしているかもしれませんね。王だけでなく、重臣や民に至るまで、皆同じような死生観を持っているようでしたから」
呆れたように息を吐き、朱夏は卓の上の書物に目を戻した。
「まあ、本当のところはまだわからぬな。とにかく今は、付け焼き刃でも挨拶の言葉を覚えることとしよう」
「私も、ご助力致します」
築岳の頼もしい言葉に頷き、朱夏は亜伊夜の国の王が来るまでの間、言葉を覚えることに集中したのであった。




