弐佰陸拾弐
帝の位に就く朱夏は、奥宮のことだけを考えているわけにもいかなかった。
ほぼ一年に及ぶ航海を終えて、櫻花楼の船が大港へ帰還したとの報告を執務室で受けた朱夏は、凛慈からの書状に目を走らせる。
「これは……どうしたものか」
眉を寄せた朱夏に、汐之が気遣わしげに尋ねた。
「どうなさいました」
「どうやら、櫻花楼の船に客人が乗り込んできたようなのだが」
「客人、ですか?」
すでに汐之は左の大臣の席に座り、輝山の大臣は長椅子でゆったりと茶を楽しんでいた。
「亜伊夜の国から、客人が来たようだ」
朱夏の言葉に驚いたのは、汐之だけではなかった。長椅子で寛ぐ輝山の大臣も、右の大臣の席に座った紘通も動揺に目を丸くしている。
「夏煌丸の出航を待たず、親雪が供をして戻ってきたようだ」
「……と、いうことは、あちらのお国の高官か、貴族の方か」
「…………王だそうだ」
「はっ?」
書面から目を上げた朱夏の視界に、ぽかんと口を開けて呆ける三名の顔が映った。ずきずきと頭が痛みだした朱夏ではあったが、凛慈からの文を汐之に向かって放る。
「亜伊夜の国というのは、頂に立つ者がそうひょいひょい国を空けられるものなのかっ?奔放にも限度があろうっ!」
こめかみに指を当てて叫ぶ朱夏に、その場にいる者が何ともいえない表情を浮かべた。
慌てて凛慈からの書状に目を走らせる汐之を横目に、朱夏は深く溜息を吐いて席を立った。
「すでに大港から王を乗せた一行は発っただろう。こちらも、歓迎の支度をせねばならぬ」
「いや、待たれよ、今上さま。まこと亜伊夜の国の王その人が、おいでになられたのですかな」
輝山の大臣の言葉に、朱夏は長椅子へと歩み寄りながら答える。
「そうでなくば、親雪がともに船に乗っては来ぬであろうよ」
どかりと椅子に腰を下ろし、朱夏は烏に薬草茶を淹れさせた。普段は一滴しか垂らさない糖蜜を、匙一杯ほど足してもらう。
甘くなった薬草茶を一息に呷り、朱夏は背筋を伸ばして祖父を見つめた。
「輝山の大臣。其方がまだ大臣職にいてくれてこれほど心強いことはない。凛慈が知らせてきた親雪の話によると、あちらの王は新たに国交を結んだ我が国を、その目で確かめるために外遊に出たとのことであった」
「はい」
「親雪には文を認める時間がなかったようで、櫻花楼の楼主宛ての文に走り書きをして寄越すのがやっとだったらしい。凛慈からの文に一応添えてはあったが、流麗な手跡の親雪とは思えない焦った文字であった」
添えられた走り書きには、要点だけを簡潔に書き殴ってあった。
亜伊夜の国の国王陛下が、突然に思い立たれ外遊へ出られた。
新たな友人となった四季の国を、ご自身の目でご覧になりたい。
折よくとは言えないが、唱洪の国にたどり着いた時には櫻花楼の船の出航が近かったため、夏煌丸を待たずにお供することとなった。
今上さまにお知らせできず面目次第もない。
親雪からの走り書きを読み上げた朱夏に、輝山の大臣がふうと息を吐いて口を開いた。
「おいでになってしまったものは仕方がありませんな。まずは重臣たちを集めて知らせねばなりませぬ」
「うむ」
「それと、宴の支度ですな。親王さまがたの披露目の儀のために用意してあった諸々を、こちらに充てることに致しましょう。酒にも食糧にも、余裕はございます」
懐から取り出した紙に書きつけながら、輝山の大臣が一つずつ確認していく。
「まさかお一人でおいでになったとは思えませぬが。旅の汚れを落としていただくために、表宮の湯殿を解放致します。寛いでいただいている間に、お泊まりになられる部屋も整えねば」
「他国の王を泊まらせられるような部屋が、表宮にあったか?」
「今上さまが日中お過ごしの居室の、向かい側に一つ、三間続きの部屋がございます。これまでは、唱洪の国の要人が我が国を来訪した際に使っていた部屋ですが。こちらに、櫻花楼から最高級の調度品を大至急運ばせましょう」
文官たちへの指示を書きつけた輝山の大臣が、呼び寄せた小姓に指示書を手渡した。
「王がお過ごしになられる部屋の体裁と、宴の支度さえ整えておけば、後はお会いしてから探ればよろしい。前触れもなくいらしたのはあちらなのです。行き届かぬところがあっても、多少は目を瞑っていただきましょう」
「そう、だな……」
「それと、今上さま」
経験豊富な輝山の大臣の存在に救われていた朱夏が、居住まいを正した祖父に目を向けた。
「何だ?」
「かのお国の奔放な艶福家。ご正室さまや第二室さまが、奥宮から決して出てこられないように、お申しつけください」
「っ!」
驚きに息を呑んだ朱夏に、輝山の大臣が続ける。
「できることなら、本宮でお世話をするのも侍女ではない方がよいのでしょうが。小姓たちでは王族の御前に姿を現すのに身分が足りませぬし。文官たちではお身の回りの世話はできません」
「……う、む」
「侍女たちには、かの御方と視線を合わせぬように、言いつけておくしかありませんな」
眉を下げた輝山の大臣に、朱夏も頷きを返すのがやっとであった。




