弐佰陸拾壱
窓から差し込む朝日の光にうっすらと目を開けた朱夏は、腕の中で寝息を立てる煌姫の顔をじっと見つめた。赤くなった目元をそっと撫でる。
酒に酔ったためか、胸の内を明かしたためか泣き続ける煌姫を、寝台に横たわらせたのは夜更け過ぎのことであった。休ませようとする朱夏に抗い、子を授けてくれと泣きじゃくる煌姫は、成人を迎えたと思えないほど幼い顔をしていた。
朱夏の胸に苦いものがこみ上げる。このまま奥宮で、舎利や親王たちの存在を感じさせながら過ごさせていいものか、朱夏にはわからなくなった。だからといって、舎利を春の宮や他の離宮に移すわけにもいかない。それはまた、重臣たちから突かれる隙となるのだ。
はあっと息を吐き出し、朱夏は身を起こした。微かに軋んだ寝台の揺れに、煌姫が身動ぎする。目を覚ましはしなかったようで、朱夏はそっと額を撫でて寝台から降りた。
天蓋の薄布を引いたままにしてやり、枕辺に用意されていた手水で顔を洗い口をゆすぐ。
手早く着替えて寝所を出た朱夏は、続きの間に控えていた華永を呼び寄せた。
「おはようございます、今上さま」
「ああ」
「ご正室さまは……」
「まだ寝ている。疲れも溜まっておろうから、目が覚めるまで休ませてやれ」
閉じた扉にちらりと視線を送った華永が、深く頷いて口を開いた。
「今上さまは、こちらで朝餉を召し上がられて朝議へ向かわれますか?」
「……第二室の元へ行く」
「それは……」
眉を寄せた華永から視線を逸らし、朱夏は煌姫の私室を出る。黙ってついて来る華永からの圧を感じ、朱夏は溜息を吐き出した。
「何だ?」
「その、僭越ながら……ご正室さまと夜を過ごされた次の朝に、第二室さまの元へ渡られるのは、その……」
「不誠実か?」
はっきりと尋ねた朱夏に華永が眉を下げる。言われるまでもなく朱夏にもわかっていた。煌姫に対しても舎利に対しても、酷い男だと自覚もある。だが、胸に重たい鉛のようなものを抱えたまま、表宮で政務を行う気にもなれなかった。
軽く息を吐いた華永が、私室の扉を閉じながら密やかに告げた。
「ご正室さまには、秘しておきます。今上さまは、すでにご政務へ向かわれたことに致しますわ」
「……ありがとう」
短く答え、朱夏は華永を残して舎利の部屋へと向かうのだった。
前触れなく訪れた朱夏の姿に、春藍に乳をやっていた舎利が驚きに目を見開いた。春蒼には、寝台の側で乳母が乳を含ませている。朱夏の姿に慌てて胸元を隠す乳母に、朱夏は申し訳なく思いながらも舎利へ歩み寄った。
浪嶺が肩から覆い布を被せてやり、舎利の胸元も隠される。
「突然、済まぬな。体調はどうか?」
「あ、はい。おはようございます。気分はよいですわ」
「よかった。春明は?」
室内に姿の見えない長男の居場所を尋ねると、舎利がくすくす笑いながら答えた。
「和沙とともに、朝の花を摘んでおりますわ」
「朝の花?」
「ええ。弟たちの枕元に飾るのだと張り切りまして。わたくしも、こうして乳をやるところでしたから、朝餉までに戻ると約束して内庭に」
「そうか」
舎利の隣に腰を下ろし、朱夏は浪嶺を振り返った。
「急で済まぬが、朕もここで朝餉をともにしたい。支度できるか?」
「厨に伝えて参ります」
静かに出ていく浪嶺の背を見送って、朱夏は舎利の腕の中の春藍に視線を移した。母譲りの群青の髪がふんわりと生え、生まれたての頃よりも少しふっくらしてきたような印象である。
ぷにっとした頬を指でつつき、朱夏は微笑んで舎利の額に口づけた。
「……どうかなさいましたの?」
朱夏が昨夜煌姫の元に渡ったことを知っている舎利が、心配げに首を傾げる。春蒼を寝台に寝かせた乳母が、近寄ってきて舎利の腕から春藍を受け取った。
離れていく乳母を眺めながら、朱夏はぼんやりと口を開いた。
「うん……少し、疲れて、な」
「……ご正室さまは、お健やかにお過ごしですか?」
舎利の肩に重さがかからないように頭を乗せ、朱夏は息を吐いた。
「体は、健やかなのだと思う」
「……」
「心の内が、よくわからぬ」
瞳を閉じて呟く朱夏の頭を、舎利の手が優しく撫でた。
「一つだけ、確かなことがございましてよ」
「うん?」
「ご正室さまは、朱夏さまのことを、深く慕っておいでです」
驚いて目を開いた朱夏は、舎利の手が頭を撫でるのに身を任せたまま、続きの言葉を待った。
「朱夏さまと離れておいでだった時が長いのですもの。お心を交わすには、きちんとお互いのお気持ちを言葉にして伝える必要がありますわ」
「言葉にして……」
「女というものは、繊細なものなのですわ。ですけど、とても強い生き物でもあります。朱夏さまがお心を砕かれるご正室さまですもの。きっとよい方向へ向かわれますわ」
昨夜の煌姫を思い出し、朱夏は思い悩んだ。帝の正室として、心強くいてくれるだろうか。
「今はまだ、環境の変化に戸惑われ、奥宮の空気に気持ちが落ち着かれずにおられるのでしょう。頼れる侍女長どのがついておいでです。穏やかに過ごされれば、きっと朱夏さまの愛するご正室さまにお戻りになりますわ」
朱夏は、舎利にそれほど煌姫について多くを語ってきたわけではなかった。夏の宮でどのように過ごしていたか、朱夏とどのような会話を交わしてきたか。
それでも、すべてを見透かして飲み込んでいるような舎利の言葉に、朱夏は確かに慰め励まされたのである。
「……其方に、甘えてばかりだな」
「たまにはよろしいのよ。でも、春明の前ではいけませんわ。拗ねますから」
その言葉に堪えきれずに吹き出した時、扉から幼く元気な声が響いてきたのであった。




