弐佰陸拾
夕餉を終え、湯浴みを済ませた朱夏は煌姫の待つ寝所へと入った。
室内には薫風が薫かれ、蝋燭の火が長椅子の煌姫の頬を橙色に照らしていた。
ゆったりと歩み寄った朱夏は、卓に用意された酒瓶と杯に目を留める。舎利の部屋では見かけたことのない器の模様に、朱夏は首を傾げつつも腰を下ろした。
「煌。疲れているなら、今宵はもう休むか?」
侍女たちをすべて下がらせ、二人きりの寝所である。煌姫の心の内を、素直に打ち明けてもらいたかった。
「わたくし、お酒が飲んでみたいと思いますわ」
「酒、か……?」
ちらりと卓の上に視線を向け、朱夏は酒瓶を手に取った。白い陶器の瓶に、真っ赤な花が描かれている。
「これは、何の酒だ?」
「櫻花楼から、わたくしが奥宮へ入ったお祝いに献上されたのですって。外国でよく飲まれている、柘榴のお酒だそうですわ」
煌姫の言葉に朱夏は瞳を見開いた。果実酒がよく飲まれているのは、亜伊夜の国ではなかったろうか。
「わたくしがお注ぎしますわ」
朱夏の手から酒瓶を受け取り、煌姫が微笑みを浮かべたまま盃に真っ赤な液体を注いだ。さらりとした甘い香りの酒が、杯の中で揺れる。
「……其方には、私が注いでやろう」
煌姫から酒瓶を受け取り傾けると、頬を染めた煌姫が頷いて杯を手にした。
杯の半分ほどまで酒を注ぎ、朱夏は酒瓶を卓に戻す。
「朱夏さま?これだけですの?」
「其方は初めて飲むのであろう?少しずつ飲んで、体に合わぬか様子を見ねば」
「そういうものですの?」
首を傾げた煌姫が、朱夏に向けて杯を傾けた。
「それでは、わたくしがこうして奥宮に入りましたことを、ともに寿ぎましょう」
「……ああ」
かちり、と杯が合わさる音が響いた。瞳を輝かせて杯の中を眺める煌姫に、ますます朱夏の違和感が膨らむ。無事に奥宮に入り、正室の部屋に構えたことで安心したのだろうか。それにしても、この明るさはどうしたことか。
こくり、と喉を鳴らして果実酒を飲み込んだ煌姫が、ほうっと息を吐いた。
「美味しい」
その言葉に一応微笑み、朱夏も杯を空ける。甘い香りが鼻を抜け、程よい酸味が味わい深い酒であった。
「ね、朱夏さま。今夜からは、こうしてここで一緒に眠ってくださるのでしょう?」
「……そうだ」
「嬉しい。正しい場所にこうしていられるのですもの。きっとすぐに御子を授かりますわね」
杯を卓に置いた煌姫が、両手を胸の前で合わせて頬を紅潮させた。苦い表情になるのを止められそうにない朱夏だったが、何とか取り繕って口を開く。
「煌。焦ることはないと言ったはずだが」
酒瓶に手を伸ばし、己の杯に再び酒を注ぐ煌姫がくすくすと笑いを漏らした。
「いいえ、朱夏さま。わたくしがこんなに朱夏さまをお慕いしているのですもの。御子を授からないなんて、そんなことあるはずがありませんわ」
「……煌」
「今日ね、わたくしが奥宮に来た時に、親王さまを見ましたの」
「……っ」
大きく目を見開いた朱夏に、煌姫がふふっと笑う。
「第二室さまとご一緒に、わたくしを歓迎するためにお花を飾っていらっしゃいましたわ。お優しいのですわね。わたくしの御子も、きっとあのように優しい子に育つかしら」
愛おしそうに己の腹部を撫でる煌姫は、来るべき未来を信じて薄桃色を煌めかせていた。
「それに、前に秋穂も言っていましたわ。わたくしの御子が、いずれ朱夏さまの跡を継いで帝になるのだと。だから、心強く、誰に恥じることもないように過ごさねばならないと」
「……」
「華永はね、朱夏さまと同じように言うの。御子は授かりものだから、朱夏さまのことを信じてお任せしていればいいって。でも、殿方にばかり頼っていないで、女人からも働きかけなければならないと思うの」
煌姫の歌うような言葉が、朱夏の耳を素通りしていくような心地になる。一体、何を言おうとしているのか。
もう一口果実酒を飲み、煌姫が朱夏の顔を覗き込んだ。
「亜伊夜の国で、後宮の女性たちは皆、意中の殿方のためにたくさん努力なさっていましたわ」
「……っ」
「四季の国では眉を顰められるかもしれないけれど。でも、ああいった扇情的な召し物を身に着けていれば、朱夏さまも毎晩通ってくださるかしら」
「煌……?」
朱夏の膝に煌姫の手が置かれた。ぐっ、と乗り上げてくる細い体を振り払うこともできず、朱夏は視線を彷徨わせる。
「ふふっ。わたくしが朱夏さまをご満足させられたら。第二室さまの元へお渡りにならずにいてくださるかしら」
「煌、何を……」
「だって、そうでしょう?お優しい第二室さまには、もう御子が三人もいらっしゃるのよ。それなら、わたくしが無事に御子を授かるように、遠慮してくださってもいいんじゃないかしら」
朱夏の膝に乗り上げたまま、煌姫が薄桃色を揺らしてじっと見つめてきた。脳の奥が痺れたような気分になり、朱夏は軽く咳払いする。
「煌。少し落ち着きなさい。酔ったのか?」
煌姫の腰に手を回し、膝から落ちないように支える。だが、煌姫はいやいやと首を振り、朱夏の胸に額を押し当ててきた。
「わたっ、わたくし……っ。だって……っひ……」
先ほどまでの笑顔が幻であったように、朱夏の胸で小刻みに体を震わせた煌姫が、嗚咽を漏らし始めた。
どうしてやることもできず、朱夏はただ、宥めるように背を撫で続けた。




