弐佰伍拾玖
表宮を抜けて奥宮の黒門へ着いた朱夏は、門前に立つ護衛の武官に訪いを告げる。
拝礼した武官が、重たい黒門をゆっくりと開けた。
ふわりと漂う柔らかな香りが朱夏の鼻を擽る。煌姫が好む薫風でも、舎利の薫く香でもない香りに朱夏は首を傾げた。
「何の香りだ?」
思わず零れた呟きに、武官の一人が微笑んで答えた。
「本日は、ご正室さまが奥宮へと入られました。第二室さまが、ご正室さまを歓迎して季節の花々を宮中に飾られたとお聞きしております」
その言葉に驚き朱夏は目を瞠った。
「春明親王さまも、お手伝いなさったとか。御心お優しい親王さまで、今上帝さまもご安心でございますね」
普段、黒門の武官と親しく言葉を交わすことのない朱夏ではあるが、裏のない笑顔で穏やかに言われて頬が熱くなった。
烏をその場に残し、奥宮の武官を供に朱夏は内へと足を踏み入れた。煌姫に与えられた正室の部屋は最奥の、日当たりのよい場所にある。
舎利の指示で飾られたという春の花々が、宮内の至るところに飾られていた。淡い色彩の花が、目も鼻も楽しませてくれる。すれ違う侍女や奥宮の使用人たちが、朱夏の姿に気づいて壁際に寄り拝礼する。
元々奥宮には、宮の管理を担う年嵩の侍女を集めていた。舎利の入内により、幾人か重臣の家から侍女を迎え入れたが、いずれもすでに奥宮を辞している。最後に残っていた侍女も、私室に軟禁された状態が長く続き、業を煮やした重臣の指示で朱夏の寝所に忍び込もうとしたため、昨年奥宮から追い出されていた。
此度煌姫が奥宮入りするにあたって、夏の宮に長く仕えていた侍女たちが奥宮へと移ってきた。莉羅がその筆頭だ。
侍女長となった華永も基本的には煌姫の私室に詰めることとなる。すでに舎利への挨拶も済ませていることだろう。
最奥の部屋の扉が見えてきた。先帝の頃の奥宮では、ここは朱夏の母美紘の私室であった。扉に艶やかな牡丹が描かれていた。今扉に描かれているのは、薄紫の藤の花であった。
扉を護る武官に帝の訪れを告げる。細く扉が開かれ、室内の明かりがうっすらと廊下に漏れてきた。
しばらく待たされた朱夏の目の前で、大きく扉が開け放たれた。
「お待たせ致しました、今上帝さま。ご正室さまがお待ちでございます」
「うむ」
鷹揚に頷き、朱夏は煌姫の私室へと足を進めた。朱夏が帝になって以来、こうして正室のための部屋に入るのは初めてのことである。
室内の椅子に腰掛けていた煌姫が、朱夏の姿を認めて立ち上がった。濃紺の衣に薄桃色の裳という、常とは違う色彩の装いである。
薄茶色の髪はしっとりと結い上げ、藤の花を模した髪飾りをつけていた。
「ようこそおいでくださいました、今上さま」
「昨夜の宴に続いて、今日は奥宮への移動であった。疲れていないか?」
煌姫に歩み寄った朱夏は、じっとその顔を覗き込んだ。薄桃色の瞳が、蝋燭の明かりを受けて揺らめいている。
薄く頬を染めた煌姫が、微笑んで頷いた。
「平気ですわ。こうして、今上さまにお会いできましたもの」
煌姫の手を取り長椅子に促しながら、朱夏も微笑んだ。
「私も、其方に会えて嬉しく思う。今宵は、ともに夕餉を取り、こちらで休む」
「はい」
長椅子に並んで腰を下ろした煌姫が、控えていた莉羅に夕餉の膳を運ばせるように指示を出した。
「今夜は、わたくしが奥宮へ移ったお祝いの膳を出してくれるのですって」
「そうか。楽しみだな」
「こうして、今上さまと並んで祝いの膳をいただけるのが、とても嬉しいですわ」
胸の前で両手を合わせてはしゃいだような声を上げる煌姫に、朱夏は僅かに違和感を感じた。昨夜まで、寝台の上で不安そうにしていたというのに。舎利や春明の心遣いが、煌姫を癒したのであろうか。
内心で首をひねる朱夏の前に、夕餉の膳が運ばれてくる。先頭を歩いてきたのは、侍女長に選任された華永であった。
「世を遍く照らす今上帝さまに、ご挨拶申し上げます。この度、侍女長を仰せつかりました、輝山の華永にございます」
「ああ。煌を守り導き、第二室にもよく仕えてくれると嬉しい」
「無論でございますわ。ご当主さまからも、くれぐれもと申しつかっております」
紘通の乳母を務めたという華永は、美紘よりいくらか年上に見えた。
白いものが混じった髪を結い上げ、萌黄色の切れ長の瞳を細めて煌姫を見つめている。目尻を下げた顔には年相応の皺が浮かんでおり、頼もしい女人といった風情であった。
「ね、朱夏さま」
膝に置いた朱夏の手に、煌姫の手が重ねられた。視線を華永から煌姫へと移す。侍女たちがまだいる前だというのに、煌姫が朱夏のことを名で呼んだことも気にかかった。
「どうした?」
「華永って、凄いのよ。わたくしの考えていることが、何でもわかってしまうみたい」
「そうなのか?」
驚いて華永に視線を戻すと、苦笑を堪えた慈愛に満ちた表情にぶつかる。
「ご正室さまは、素直なよき女人でございますよ。わたくしは、こうしてお仕えできることが嬉しく思います」
「わたくしも、華永がお側にいてくれるのが嬉しいわ。朱夏さまがおいでになれない寂しい時も、ずっとお側にいてくれるのでしょう?」
煌姫の言葉に朱夏の眉間に皺が寄りかけた。だが、奥歯に力を入れて堪える。不機嫌そうな表情など、煌姫には見せられなかった。
「其方が華永を気に入ったのならよかった。さあ、膳をいただこう」
「ええ。わたくしの好物を揃えてくれたのですって。嬉しいわ」
にこにこと、笑顔を浮かべ続ける煌姫を見ながら、朱夏は何とも言えない気持ちになったのである。




