弐佰伍拾捌
煌姫が無事に奥宮へ入った知らせを、朱夏は表宮の執務室で受けた。
輝山の大臣が、引退に向けて汐之に引き継ぎをしている最中のことであった。汐之から右の大臣の地位を引き継ぐために、紘通も執務室を訪れていた。
「そうか。無事移ったか」
安堵の吐息とともに呟きを漏らした朱夏に、輝山の大臣が目尻を下げて頷いた。
「よろしゅうございました。侍女長には、華永を呼び寄せてありますし、奥宮を上手く取り仕切ってくれることでしょう」
輝山家から選出された侍女長の華永は、紘通の乳母を務めた女人である。長く輝山に仕え、近年では美紘の世話も引き受けていたと朱夏は聞いていた。
「祖父上は、一月後の親王の披露目までは勤め上げてくれるのであろう?」
「左の大臣として最後の大仕事でございますからな。有終の美を飾らせていただきますぞ」
茶目っぽく片目を瞑った輝山の大臣に、朱夏はくすりと笑いを漏らした。
「親王たちの披露目が終われば、しばらく大きな式典はないな」
「左様でございますな。夏煌丸と大船が戻るのは夏の初めでございますし。外国の新たな情報が入ることもないでしょう」
「夏煌丸の次の出航で、築岳が大陸へ渡るな」
交代制にした外交官たちは、四季の国にいる間は文官として宮廷で働いている。商家出身の築岳は、外国から交易品として持ち帰った品を管理する役目に就いていた。交易品の中には、外国の言葉で書かれた書物もある。医薬についての書や物語など、その種類は様々だ。
四季の国でも広く読まれるようにと、翻訳も担っていた。
「朕もいくらか言葉を習ったが、やはり外国の発音は難しいな」
「親雪が帰国した折には、また教わればよろしいのです」
「それと、ゆくゆくは親王たちにも習わせたい」
帝一族の男子としての教育もまだ始まっていない息子たちに、それは気が早すぎるであろうか。
「いずれ外国から要人をお迎えする機会も来るやもしれませぬ。お早い内から言葉を習われるのはよろしいと思います」
輝山の大臣に頷き、朱夏は汐之に視線を向けた。
「右の大臣の引き継ぎは、順調に進みそうか?」
尋ねられた汐之が口元に笑顔を浮かべる。隣に座った紘通をちらりと見やり、面白そうに口を開いた。
「私が大臣として担っていたのは、仙螺の元大臣とは違って国防が主でしたからな。紘通どのには、外交を担当していただき、海護隊や国防については引き続き私が担った方がよろしいかと」
「だが、其方は左の大臣に上るのだ。多忙すぎはしないか?」
帝の左の大臣の職務は多岐に渡る。帝の政の補佐、重臣たちの掌握、国中から上げられる報告や嘆願への対応。
飢饉が起これば、国庫から民に糧食を放出しなくてはならない。
地方で一揆でも起きれば、鎮圧のための兵を差し向ける算段もしなくてはならなかった。
外戚として権勢を振るえると思っている重臣たちには想像もつかないほど、大臣職というものは重責なのだ。
「確かに忙しくはなりますが。それを理由に、海護隊のお役目を取り上げるのはやめてくださいませよ。私にとっては、海に関わることが息抜きにもなるのですから」
「海護隊の総隊長は其方だ。それは変わらぬ。だが、其方の体が損なわれないか心配だ」
「こうして紘通どのにも様々に引き継いでおりますし、若い文官たちも育っております。無理をすることは致しませんよ」
「……それならばよいが。其方は、春明たちの祖父上なのだ。朕の左に控えてくれるためにも、体を労れ」
朱夏の言葉に汐之は微笑んで頷いた。
「ありがたいお言葉、かたじけなく」
笑みを深くした汐之が、目を丸くしている紘通に視線を向けた。
「何か、驚かれたか?」
「ああ、いえ。湊刃の大臣は、今上さまと深い絆がおありなのだと思いましてな」
これまで朱夏と両大臣が会話しているところを、紘通はあまり見たことがなかった。父である輝山の大臣とは、屋敷で顔を合わせた際に多少朱夏の話をすることはあったが、汐之とは宮中でもほとんど話したことがない。
「湊刃の大臣は、朕の義父上さまだぞ?頼もしく思っている。これからは、其方もいるしな」
「……はっ。ありがたく存じます」
生真面目に答えた紘通に苦笑し、朱夏は椅子から立ち上がった。
窓の外では日が暮れ始め、宵闇が近づいてきていた。
煌姫が奥宮に入っためでたい日だ。夕餉は煌姫と取ると決めてあった。
「朕はそろそろ、奥宮へ渡る。使いは出してあるな?」
壁際の烏に尋ねると、深い頷きが返ってきた。
「侍女長どのから、お待ちしているとの返事が来ております」
「わかった。それでは、朕はこれで退出する。其方らも、あまり根を詰めるなよ」
「御意。奥宮で、ごゆるりと夜を過ごされませ」
三人を代表して答えた輝山の大臣に頷き、朱夏は烏を伴って執務室を後にした。




