弐佰伍拾漆
夜通し騒ぐ祝宴の場を抜け、朱夏は煌姫を伴って夏の宮へと戻った。
大内殿での宴は朝まで続くが、重臣たちの挨拶を受け終えた朱夏が、最後までその場に留まる必要はない。式典と宴で疲れた煌姫を、慣れた宮で早く休ませてやりたかった。
莉羅の開いた扉から煌姫の私室へと入り、朱夏は煌姫を長椅子に座らせてやった。
「莉羅に着替えを手伝ってもらうとよい。私も、湯を浴びてくる」
「……はい」
目を伏せて答える煌姫の前に回り、朱夏はその場で膝をついた。
「煌。言いたいことがあるのならば、はっきり言ってほしい」
「いえ……」
首を振る煌姫は、憔悴しているように朱夏の目には映った。やはり祝宴は欠席させるべきだったのであろうか。だが、朱夏の隣に煌姫の姿がないことで、廷臣たちに余計な噂を立てさせたくはなかった。
溜息を一つ零して立ち上がった朱夏に、煌姫が縋るような瞳を向ける。
「明日には奥宮へ移るのだ。今宵は早く休み、疲れを取らねば」
「今上さま、は……」
「どうした?」
首を傾げた朱夏に、煌姫がしばらく迷う素振りを見せた後で口を開いた。
「今宵は、夏の宮でともにお過ごしくださいますか……?」
その言葉に目を見開き、朱夏はまじまじと煌姫を見下ろした。
「其方が成人を迎えた喜ばしい夜に、私を追い出すのか?」
「あの、その……奥宮へ、渡られるのか、と」
徐々に小さくなっていく声に、朱夏は眉を下げた。体調の優れない舎利の姿を見たことで、朱夏が奥宮へ渡って彼女の側にいると思ったのだろうか。
「今宵は、其方ともにこの宮で過ごす。明日はともに奥宮へは行けぬからな」
「そう、ですか……」
「さあ、休む支度を莉羅に整えてもらえ」
小さく頷いた煌姫を莉羅に任せ、朱夏は烏とともに私室を出た。
湯殿に向かって廊下を歩きながら、朱夏は特大の溜息を吐き出した。咎めるような烏の声が追ってくる。
「今上さま。侍女たちに見られますよ」
「う、む……」
「宴では、重臣の方々に何か言われたのですか?それとも、まさか第二室さまに?」
式典にも祝宴にも参列できる身分ではない烏は、常に朱夏の姿を視界に捉えられる場所で控えていたはずである。
「重臣たちが、な。まあ、早く世継ぎを産めと」
湯殿の扉を開けた烏が、ああ、と痛ましそうな表情で煌姫の私室の方を窺う。
紫紺の衣を脱ぎながら、朱夏は再び溜息を吐いた。床に落とされた衣を、烏が丁寧に拾い上げる。
「悪意のある言葉ではない。単純に、帝の嫡出の世継ぎの誕生が待ち遠しい、と。咎めることができなかったゆえ、煌の心が案じられてな」
袴も脱いだ朱夏は、湯浴み用の単を纏いながら湯気のこもる中へと足を踏み出した。
「湯浴みを終えたなら、すぐに煌の元へ戻る。支度しておけ」
「御意」
頭を下げた烏に背を向けて、朱夏は汗を流すために扉を閉じた。
楽な夜着を纏った朱夏が、煌姫の私室へと戻った。
すでに豪奢な装束は着替えが終わっており、長椅子に座った煌姫が莉羅に髪を梳られているところであった。
「支度は終わったか?」
「はい。お化粧も落とされまして、お体も清めてございます」
煌姫の後ろから答えた莉羅に頷き、朱夏は煌姫の隣に腰を下ろした。
「疲れたろう。もう休むか?」
「……はい」
手を差し出せば、素直に手の平を乗せてくる。その指先が常になく冷たく、朱夏は眉を寄せた。
「もしや、体調が悪いのか?」
額に手を当ててみるが、熱を出している様子はなかった。背後の莉羅を振り返る。
「月の障りということはないな?」
「はい。まだそのような時期ではございません」
「では、式典と宴の疲れか。さあ、煌。寝所へ入ろう」
ゆっくりと立ち上がった朱夏に、煌姫も手を引かれたままついてくる。
私室から続き部屋になっている寝所への扉を莉羅が開き、朱夏は煌姫とともに夏の宮の寝所へと入った。
ここで夜を過ごすのも、今夜が最後となる。感慨深く室内を見回しながら、朱夏は煌姫を寝台へと連れて歩いた。
煌姫の体を寝台に横たえ、枕元の蝋燭の火を絞った朱夏も、煌姫の隣に横たわる。
天蓋の薄布が莉羅の手によって下ろされ、寝所を出ていく物音だけが響いた。じっと身動きせずに黙っていた煌姫が、朱夏の腕の中で背を向けたまま呟いた。
「今上さま、あの……」
「煌。公の場でなければ、朱夏と呼んで構わぬのだぞ」
「……はい」
朱夏からは煌姫の表情は見えない。後ろから抱き込んだのは失敗であったか。
そんなことを考えていた朱夏の耳に、心細げな声が届く。
「今宵は、あの……」
「どうした?」
「その……朱夏さまの、ものに……してくださらないの?」
その言葉に大きく目を見開き、朱夏はぽかんと口を開けた。その呆けた顔を見られていなくてよかったと内心焦りながら、冷静な声で煌姫に答える。
「疲れているだろう?其方の体に障る」
「でも、あの……御子、を」
「焦る必要はない。其方の健康を損ねてまで、急いで成さねばならぬことではないのだ」
朱夏の腕の中で、煌姫が身動いだ。
「わた、わたくし……平気ですわ。きっと、御子を授かってみせますっ」
やはり重臣たちの言葉が、煌姫の中で重たく積み上がっているようである。
眉を下げて、朱夏は煌姫の腰に手を回し、ぐるりと向きを変えさせた。腕の中から、涙の溜まった薄桃色が見上げてくる。
そっと額に口づけ、朱夏は口を開いた。
「いずれ、きっと其方にも子ができよう。其方がそのように焦った思いを抱いていては、子が宿った時に母を心配するやもしれぬ」
「はは……」
「そうとも。其方が身籠れば、其方は私の子の母君になるのだ。心安くいてくれねば、子が不安になるぞ」
煌姫の髪を撫でながら、朱夏は優しくそう告げた。
「私は其方のことを大切に思っている。重臣たちの酒の席での軽口など、聞き流していればよい」
「……はい」
煌姫の唇に己の唇を重ね、朱夏は華奢な体をぎゅっと抱き込んだ。




