弐佰伍拾陸
大内殿では、式典に参列していなかった身分の低い廷臣たちが、帝と正室の登場を心待ちにしていた。
この祝宴で、煌姫の姿を初めて見る者も多くいる。ざわざわと騒がしい大内殿へと、煌姫が朱夏に手を引かれて現れた時には、大歓声が上がった。
ぴくり、と指先を震わせた煌姫が、顔を上げて真っ直ぐに前を向いて上座へと歩く。煌姫の緊張が手の平越しに朱夏にも伝わったが、正室としての務めを果たすと覚悟を決めている煌姫に、寄り添うようにともに歩いた。
上座に二人並んで座り、左に控える輝山の大臣に目配せをした。
「それではこれより、今上帝さまのご正室さまのご成人を寿ぎ、宴を開催致します。宮廷からの美酒を惜しまず出しておりますので、皆々さま心ゆくまで楽しまれよ」
大内殿の至るところで、盃を合わせる音が響いた。朱夏も盃を掲げ、煌姫に向けて傾けてみせた。
輝山の大臣から順に、朱夏と煌姫の元へ酒瓶を持って挨拶にやって来る。
「今上さま、ご正室さま。本日はまことにおめでとう存じます」
「ありがとう」
「ありがとう存じます」
朱夏の盃に酒を注ぎながら、輝山の大臣は瞳を潤ませて口を開く。
「まことに、こうしてお二方が並んでおられるのを見られて、ここまで生きてきてよかったと思えますぞ」
「年寄りくさい発言だぞ」
「何を仰せか。私は真実年寄りでございますぞ」
ふくふくと笑い、輝山の大臣が優しい瞳を煌姫に向けた。
「煌姫さまにも、こうして再びお目にかかることができて幸せでございます」
「……わたくしも、しゅ……今上さまをお支えし続けた大臣にお会いできて、嬉しく思いますわ」
「ほっほ。以前にお会いしたのは、今上さまとのご成婚の折でございましたからなあ。麗しくご成長なさって、これほど喜ばしいことはございませんぞ」
輝山の大臣の言葉に、煌姫が扇の陰で頬を染めた。薄桃色の瞳を細めて微笑む。
次にやって来たのは汐之である。朱夏の盃に酒を注ぎ、己は特注の大盃になみなみと注いだ酒を豪快に飲み干した。
「今上さま、ご正室さま。ご成人まことにおめでとう存じます」
「ありがとう」
「……ありがとう存じます」
煌姫が汐之と顔を合わせるのは、初めてのことであった。
亜伊夜の国から戻った夏煌丸を降りた際には、侍女たちがその姿を汐之の目から隠し、都までの途上の宿でも顔を見せることはなかったのである。
感慨深げに吐息を漏らし、汐之が輝山の大臣と同じように微笑む。
「こうしてご正室さまにお目見え致しましたこと、この上ない誉れでございます」
「以前に言葉を交わしたことはなかったな?」
朱夏の問いに汐之は頷いた。
「大きな式典で、数度ご尊顔を拝したことはございますが。あの頃の私はまだ、大臣ではありませんでしたからなあ。ご正室さまに直接お言葉を賜われる地位にはおりませんでした」
汐之の言葉に、朱夏はそれもそうかと首肯した。
「明日よりは奥宮に移られ、今上さまのご正室さまとしてお忙しくなるやもしれません。お健やかに過ごせるように、お体を労られますよう」
「……ありがとう存じます」
大柄な汐之をじっと見つめ、煌姫は小さな声で答えた。目の前にいるのが、舎利の父であると思えば、一度は治まった緊張がぶり返してくるような心地である。
膝の上に乗せた手に、朱夏がそっと手を重ねた。
汐之が立ち去った後は、重臣たちが次々にやって来る。
「いやはや、今上帝さま。麗しくご成長なさったご正室さまと、こうして並び立たれて喜ばしいですな」
「ありがとう。其方らにも心配をかけたが、こうしてあるべき場所に立つことができて朕も安堵している」
「左様でございますな。後は、ご正室さまに御子が授かれば、今上帝さまの御世はますます安泰というもの」
したり顔で頷く重臣の言葉に、煌姫の肩がびくんと跳ねた。手を握ったまま、朱夏は宥めるように撫でてやる。
「それは気が早いと、朝議の場でも申したはずだが」
低くなった朱夏の声にも気づかず、重臣は嬉々として続ける。
「何を仰せですかな、今上帝さま。ご嫡出の御子さまがおいでになってこそ、帝一族も安泰というものでございます」
「左様。こればかりは、悠長に構えておられてはなりませんぞ」
後ろから、酒瓶を持った別の重臣が声を掛けてきた。他にも、笑顔で頷き合っている重臣たちの姿に、煌姫の笑顔が固くなる。
酒の席での軽口だ。気に病むことはないと煌姫に言葉を掛けたいが、次々に酒は注がれ重臣たちの会話も興が乗ったのか遠慮がなくなっていく。こうなっては、なかなか止められなかった。
「ご嫡出の御子さまが誕生なされば、親王さまがたもお喜びでしょうなぁ」
「左様ですなあ。何、こうしてご無事にご成人を迎えられたのです。奥宮にも移られるのですから、心配することはありませんかな」
「まったく、楽しみなことです」
最後まで、煌姫の表情に気づくことなく重臣たちが上機嫌に去って行った。
震える指先を握ったまま、朱夏が気遣わしげに煌姫に視線を向ける。
「煌。夏の宮へ戻るか?」
「……っ、いいえ」
「こうした酒宴の場では、ああいった声はこれからも聞くことになるだろう。悪意あるものからは守ってやれるが、あれは朕と国のためを思っての……」
「わかって、います……っ」
朱夏の言葉を遮って、煌姫は必死に前を向いていた。廷臣たちの目がある中で、決して泣くまいと唇を噛みしめている。
眉を下げた朱夏は、ただ煌姫の手を握り重臣たちの酒を受け続けることしかできなかった。




